「小さき声」第14号を復刻した。
14号には、病苦を紛らわすために麻薬におぼれ、モルヒネ中毒になった療友のTさんのことが書かれている。在日として故郷を持たず流浪する彼の苦しみ、その悲喜劇的な自殺騒動の顛末が、ドストエフスキーの「死の家の記録」を思わせる筆致で、松本さんによって冷静に記録されている。彼はこのような自殺騒ぎを何度も繰り返しては、医師からモルヒネを注射して貰い、しばらくの間眠りこけ、禁断症状になると同じ事を繰り返す。そこには救いはなく、ただ麻薬による身心の荒廃だけが進行する。
松本さんは、Tさんがどうなったのか、ここでは詳しくは書いていない。ただ、Tさんのための祈り、そしてTさん自身の祈りの言葉を記しているだけである。
モルヒネがきれたときのTさんに、「神さまの話をしてくれ」と言われ、松本さんは「イエスが十字架にかかるとき、痛みを和らげるための葡萄酒を飲まなかった」という話をする。Tさんは初めて聞く話に嗚咽した・・・・。松本さんはただ、彼のために祈り、彼も又最後に一言、「神さま、私のためにお祈り下さい」と祈ったという。
病苦をまぎらわすためにモルヒネに走った患者は、とくに戦前の療養所に多かったという。麻薬と賭博が、未来を奪われた患者にのこされた現実逃避の罠であったが、その罠に陥ったものの悲惨さを書き記すとき、松本さんは他人ごとではなく、自分も、ある意味で、同じ苦しみの中にあったことを書き加えている。負の螺旋のような苦しみから解放される祈りの言葉こそ松本さんの「小さき声」の証するものなのだろう。 その祈りは、我々の内から出る言葉ではなく、聖書との出会いによって、キリストから与えられるものなのである。
松本さんは、どういう聖書を暗誦されていたのか、以前、「朽腐(くさり)」という言葉を使っていたことから、ヨブ記を文語訳で暗記されていたことが判ったが、この当時(1963年)は、文語訳聖書のほかに1954年に口語に改訳された聖書の二つをともに暗記して居られたことが判る。
聖書の祝福の言葉は、文語訳では「幸いなるかな」と文頭に来るが、口語訳では、「・・・はさいわいである」と文末に来る。文語訳の方が、簡潔で覚えやすいが、松本さんは口語訳の方も記憶されていて、それぞれの訳文に独自の意味を見出している。
文頭に来る場合は、イエスの祝福を受けて、現在に於いてすでに幸福であるということをあらわし、文末に来る場合には、将来において(イエスが再び来られるとき)必ず幸福を受けるということを表すというのが、松本さんの解釈であった。
原文のギリシャ語では、「マカリオイ」(幸いなるかな)が文頭に来る。だから、キリストの祝福は、元来は「幸いなるかな」と、現在形で語られている。すでに現在に於いて幸福であると言うこと、それはキリスト教の救済が、けっして未来(まだ来ない不確定の時)におかれているのではなく、現在のうちにすでに確実に存在する将来(まさに来たらんとすること)にあることを示している。救いを単なる未来におくような思想は、人を救う力を欠くであろう。救済は「現在」においてあるものでなければならない。しかし、キリスト教の問題とする「現在」は、単なる「今」という瞬間だけで充足しているのではなく、受難の苦しみ、その苦しみが十字架によって贖われたという原事実(過去)を踏まえ、信仰と希望という「将来への開け」、ないし「将来への超越」を持っているのである。
14号には、病苦を紛らわすために麻薬におぼれ、モルヒネ中毒になった療友のTさんのことが書かれている。在日として故郷を持たず流浪する彼の苦しみ、その悲喜劇的な自殺騒動の顛末が、ドストエフスキーの「死の家の記録」を思わせる筆致で、松本さんによって冷静に記録されている。彼はこのような自殺騒ぎを何度も繰り返しては、医師からモルヒネを注射して貰い、しばらくの間眠りこけ、禁断症状になると同じ事を繰り返す。そこには救いはなく、ただ麻薬による身心の荒廃だけが進行する。
松本さんは、Tさんがどうなったのか、ここでは詳しくは書いていない。ただ、Tさんのための祈り、そしてTさん自身の祈りの言葉を記しているだけである。
モルヒネがきれたときのTさんに、「神さまの話をしてくれ」と言われ、松本さんは「イエスが十字架にかかるとき、痛みを和らげるための葡萄酒を飲まなかった」という話をする。Tさんは初めて聞く話に嗚咽した・・・・。松本さんはただ、彼のために祈り、彼も又最後に一言、「神さま、私のためにお祈り下さい」と祈ったという。
病苦をまぎらわすためにモルヒネに走った患者は、とくに戦前の療養所に多かったという。麻薬と賭博が、未来を奪われた患者にのこされた現実逃避の罠であったが、その罠に陥ったものの悲惨さを書き記すとき、松本さんは他人ごとではなく、自分も、ある意味で、同じ苦しみの中にあったことを書き加えている。負の螺旋のような苦しみから解放される祈りの言葉こそ松本さんの「小さき声」の証するものなのだろう。 その祈りは、我々の内から出る言葉ではなく、聖書との出会いによって、キリストから与えられるものなのである。
松本さんは、どういう聖書を暗誦されていたのか、以前、「朽腐(くさり)」という言葉を使っていたことから、ヨブ記を文語訳で暗記されていたことが判ったが、この当時(1963年)は、文語訳聖書のほかに1954年に口語に改訳された聖書の二つをともに暗記して居られたことが判る。
聖書の祝福の言葉は、文語訳では「幸いなるかな」と文頭に来るが、口語訳では、「・・・はさいわいである」と文末に来る。文語訳の方が、簡潔で覚えやすいが、松本さんは口語訳の方も記憶されていて、それぞれの訳文に独自の意味を見出している。
文頭に来る場合は、イエスの祝福を受けて、現在に於いてすでに幸福であるということをあらわし、文末に来る場合には、将来において(イエスが再び来られるとき)必ず幸福を受けるということを表すというのが、松本さんの解釈であった。
原文のギリシャ語では、「マカリオイ」(幸いなるかな)が文頭に来る。だから、キリストの祝福は、元来は「幸いなるかな」と、現在形で語られている。すでに現在に於いて幸福であると言うこと、それはキリスト教の救済が、けっして未来(まだ来ない不確定の時)におかれているのではなく、現在のうちにすでに確実に存在する将来(まさに来たらんとすること)にあることを示している。救いを単なる未来におくような思想は、人を救う力を欠くであろう。救済は「現在」においてあるものでなければならない。しかし、キリスト教の問題とする「現在」は、単なる「今」という瞬間だけで充足しているのではなく、受難の苦しみ、その苦しみが十字架によって贖われたという原事実(過去)を踏まえ、信仰と希望という「将来への開け」、ないし「将来への超越」を持っているのである。