歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

蕉風俳諧のルーツ 2

2005-11-10 | 美学 Aesthetics
蕉風俳諧の美学


芭蕉の俳諧の根本精神を表す言葉として「匂ひ」を取り上げよう。

「附心は薄月夜に梅の匂へるが如くあるべし」(祖翁口訣)

薄月夜とは、雲などに遮られてぼんやりと月が見える様。くまなく見える月ではない。この美学は、心敬のいう幽玄の美学の系譜に属する。あらわなもの、明るすぎるものは、読者の想像力を働かせる余地がないが故に詩情を喚起しない。「薄月夜の梅の匂ひ」のごとく、かすかなるものほど、ほのかなるもののなかに隠れている美を象徴することーここに蕉風美学の出発点がある。「匂ひ」とはそれをあらわす独特の用語。

「匂ひ」という言葉は、風雅の「風」と縁のある言葉である。風は、多くの言語では「霊」的なもの(インスピレーション)と同義であり、それ自体は言語で記しがたいものであるが、藝術や宗教の生命を象徴する。その風が「雅(みやび)」であって「俗」でないことを要求するのが「風雅」という言葉である。芭蕉晩年の弟子の一人である惟然から、風雅とはどういうものかと尋ねられた芭蕉は、「句に残して俤にたつ」ことだといっている。(一葉集遺語)
「句に残す」とは、句のなかで言い残して、却ってその「おもかげ」にたつことが風雅だというのである。

従って、蕉風俳諧では、「言い尽くす」こと「言い畢ほす」ことが嫌われた。たとえば

   下伏につかみわけばや糸桜

という句を去来が「糸桜の十分に咲きたる形容よく言ひ畢ほせたるにあらずや」と賞賛したのに対して、芭蕉は、

  「言ひ畢ほせて何かある」

と答えたという。去来はそのとき初めて肝に銘じて「発句になるべきこととなるまじきこと」を知ったと回想している。

「匂ひ」は、しかしながら、発句のような短詩を成立させる技巧と見るべきではない。技巧のような作為は、こころの風光を漂わせる自然なる「匂ひ」とは正反対のものだからである。
「附といふ筋は匂、ひびき、面影、移り、推量などと形なきより起るところなり、心通ぜざれば及び難き処なり」(三冊子)
それでは、匂附の実例としてどんな附合があるのかを見てみよう。鬼貫が幻住庵の芭蕉のもとを訊ねたときの歌仙、「夏木立」の巻から例を引く。

    うすうすと色を見せたる村もみじ   芭蕉

に対して、どういう付けがよいのか。その場では、次の四句がでたが、どれも芭蕉によって却下された。

一 下手も上手も染屋してゐる
二 田を刈りあげて馬曳いてゆく
三 田を刈りあげてからす鳴くなり
四 よめりの沙汰もありて恥かし

最後に

   御前がよいと松風の吹く   丈草

という付けが出たときに、はじめて芭蕉は印可したという。芭蕉の門弟達が、この附合を「匂ひ」付けと呼んだことは、俳諧芭蕉談のつぎの言葉に明らかである。

「御膳がよいと云う松風は、うすうすと色を見せたる匂ひを受けて句となる。心も転じ、句も転じ、しまこその力をとどめず、これを「にほひ附」といふ。」
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