歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

蕉風俳諧の成立 2

2005-11-24 | 美学 Aesthetics
談林俳諧に呼応して

延宝三年(一六七五) 西山宗因江戸にて十百韻(千句)興行 開巻の表八句

さればここに檀林の木あり梅の花  宗因
  世俗眠をさますうぐひす    雪柴
朝霞たばこのけむり横折れて    在色
  駕籠かきすぐるあとの山風   一鉄

談林俳諧は、大阪の新興の町民たちに受け入れられた。貴族や武士ではない新しい階級の文藝としてである。その宗匠、西山宗因は、この千句興行のときはすでに七十一歳であったが、当時の江戸の俳壇を圧倒する気力の充実振りを示した。
宗因の付け方は、心附とよばれ、率直で自由闊達な詠みぶりが当時三十三歳の芭蕉に大きな影響を与えた。 翌年芭蕉は、山口信章(素堂)との両吟で次のような二百韻(百韻二巻)を詠んでいる。

梅の風俳諧國に盛んなり     信章
  こちとらづれもこの時の春  芭蕉
紗綾(さや)りんず霞の衣の袖はへて    同
  倹約しらぬ心のどけき     章
してここに中頃公方おはします   同
  かた地の雲のはげて淋しき   蕉
海見えて筆の雫に月すこし     同
  趣向うかべる船の朝霧     章

「梅の風」とは梅翁こと西山宗因の談林風をさし、宗因の十百韻に和したもの。
第三の芭蕉の句は、大阪町民の華美な出で立ちを詠んだものであるが、次の四句では、それを風刺している面白い。公方とは足利義政あたりを指す。芭蕉の「かた地の雲のはげて淋しき」は、漆器の堅地の雲のはげかかった茶器を詠んで、茶道の「さび」の精神をもって承けたもので、後年の芭蕉の附(心付け、匂い附け)を思わせる。
芭蕉はのちに「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳が涎をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」と言ったが、同時に談林の華美な詠みぶりを批判する視点も持ち合わせていたと言うべきであろう。
大阪の新興の町民文化を背景とする談林俳諧は、奔放かつ無軌道な詠み方が、やがて質よりも量を重視する「早口俳諧」、井原西鶴の「矢数俳諧」にいたり浮世草子の世界へと吸収されていく。
「近年俳道の盛んなるに任て、千句万句など名付け、早口の俳諧を好むこと、誠に何の味もなき事なり。句は沈思して一句にても心をとめてし出すこそ面白けれ」(岡西惟中)
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