今日は、いつもの様に全生園の愛徳会で主日のミサに参列したが、今年の二月に刷新された使徒信条の新しい口語訳をプリントしたものを戴いた。ここの信徒さん達の平均年齢はほぼ80才、アヌイ神父などパリミッションの司式を覚えている世代は、まだラテン語でミサを唱えていた時代だから、隔世の感があると思う。旧い世代にとって、典礼の言葉が変化するとなかなかそれに適応するのが難しい。還暦まであと二年の私自身もまた、口語訳にはなじめず、旧い文語訳の方がずっとよいという感情がある。それはともかく、日本のカトリック教会では、新しい世代のために典礼の言葉も平易な口語訳へと刷新していく方針のようだ。言葉がラテン語から文語訳に代わり、それが口語訳になり、そしてさらに平易な口語訳になるのは時代の趨勢だから、そのことに反対はしない。まだ、明治時代の文語訳を越える様な訳は出ていないと思うが、口語訳でも魂のこもった訳は可能であると思うから。
もともと新約聖書や使徒信条のような初代教会の文献は、当時の被植民地の民衆の共通語で書かれたものだ。いってみれば、今日のラテンアメリカやアフリカの人々が英語で書物を書く様なものであった。新約聖書はコイネー(当時の世界共通)の平易なギリシャ語で書かれていた。だから、生粋のギリシャ人の語る古典ギリシャ語ではない。それにもかかわらず、私は、プラトンやソフォクレスのような生粋のギリシャ人の書くギリシャ語にはない魅力を感じる。簡潔で力強いヘブライ語法のはいった独特の表現が多いが、そのなかに民族精神を越える普遍性を認める。後世のラテン語の典礼訳は西洋世界の文語訳で格調が高いと言われているが、よく調べてみると、それはギリシャ語聖書からの直訳に近いものである。そして、近代ドイツ語や英語に影響を与えたルターのドイツ語訳も英語の欽定訳も、現在の訳文にくらべれば、その簡潔さと力強さにおいて、はるかに原語に忠実な直訳である。
日本語訳の場合も、訳文は出来る限り原語にそっておこない、一字一句ゆるがせにせずに内容を理解することがが大事だろう。今日は、キリスト教の原点に立ち返って、使徒信条の内容を理解するために、翻訳の日本語だけで満足するのではなく、原文と複数の翻訳を参照しつつ、とくに「カトリック教会とは何か」という問題を考えてみたい。
使徒信条は、父と子と聖霊の三位一体の神への信仰を宣言したものだが、その三番目の、聖霊への信仰を宣言する箇所で、「聖なる普遍の教会」という言葉が出てくる。新しい口語訳では、次の様になっている。
次に、「聖霊への信仰」が、同時に「聖霊のうちにある信仰」であること。聖霊こそが、そこにおいて「私は信じる」という信仰の生起する場所なのである。そして聖霊の場に於いて「聖なる普遍の教会」すなわち「カトリック教会」への信仰が生起する。
日本語訳の「聖なる普遍の教会」は英訳では、 the holy catholic church すなわち「聖なるカトリック教会」と訳されている。この点では、日本語訳の方が、良いと思う。ここでのカトリックとは、プロテスタントを排除するものではないからだ。アメリカのプロテスタント教会では、the holy Christian Churchと訳して、catholic という語を避ける場合もあるし、日本のプロテスタント教会では、「聖なる公同の教会」と訳すことが多い。ようするに、カトリックとは、公同的、普遍的といのが原義なのだ。
私自身は、「カトリック」という言葉を使うときは、いつでもこの、「普遍の教会」という原点に立ち返って考えている。けっしてプロテスタントに対するカトリックという意味に特殊化しない。プロテスタント教会もまた、使徒信条を自らの信仰の拠り所としている限りでは、カトリックでなければならない。ローマン・カトリック=カトリックと考える人もいるが、真に普遍的なものに、西も東もなく、ローマも東京もない。ラテンアメリカの人も、アフリカの人も、ヨーロッパの人に劣らずカトリック的であり得るのだ。
だから、カトリックとは民族という特殊性から自由でなければならないし、特定の教派の教会組織からも自由でなければならない。普通、ローマカトリックと呼ばれている教会組織もまた「真にカトリック的であること」が課題として与えられている-私は、こうなふうにカトリックという言葉を使っている。
さらにもう一歩を進めて、私は、日本の無教会主義のキリスト教、とくにその原理を旧約聖書にまで遡って理解しようとした関根正雄の「無」教会思想のなかに本来的な意味でのカトリックの原点を見ている。ここにいう「無」は単なる教会の否定ではない。「無」教会とは教会を否定することによって、それを復活させることに他ならないからだ。「無教会」の「無」の場所に徹するところに聖霊への信仰があり、聖霊の内にあることこそ、まさに誕生しようとしている教会の原点なのだから。
もともと新約聖書や使徒信条のような初代教会の文献は、当時の被植民地の民衆の共通語で書かれたものだ。いってみれば、今日のラテンアメリカやアフリカの人々が英語で書物を書く様なものであった。新約聖書はコイネー(当時の世界共通)の平易なギリシャ語で書かれていた。だから、生粋のギリシャ人の語る古典ギリシャ語ではない。それにもかかわらず、私は、プラトンやソフォクレスのような生粋のギリシャ人の書くギリシャ語にはない魅力を感じる。簡潔で力強いヘブライ語法のはいった独特の表現が多いが、そのなかに民族精神を越える普遍性を認める。後世のラテン語の典礼訳は西洋世界の文語訳で格調が高いと言われているが、よく調べてみると、それはギリシャ語聖書からの直訳に近いものである。そして、近代ドイツ語や英語に影響を与えたルターのドイツ語訳も英語の欽定訳も、現在の訳文にくらべれば、その簡潔さと力強さにおいて、はるかに原語に忠実な直訳である。
日本語訳の場合も、訳文は出来る限り原語にそっておこない、一字一句ゆるがせにせずに内容を理解することがが大事だろう。今日は、キリスト教の原点に立ち返って、使徒信条の内容を理解するために、翻訳の日本語だけで満足するのではなく、原文と複数の翻訳を参照しつつ、とくに「カトリック教会とは何か」という問題を考えてみたい。
使徒信条は、父と子と聖霊の三位一体の神への信仰を宣言したものだが、その三番目の、聖霊への信仰を宣言する箇所で、「聖なる普遍の教会」という言葉が出てくる。新しい口語訳では、次の様になっている。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。原文のギリシャ語、ラテン語訳、そして英訳を併記すれば次の通り。
原文(ギリシャ語) Pisteuw eiV to PNEUMA TO AGION, agian kaqolikhn ekklhsian, agiwn koinwnian, afesin amartiwn,sarkoV anastasin. zwhn aiwnion, Amhn.まず、注意すべき事は、この信仰宣言の人称性である。それは、「私は信じる」と述べるものなのであって、決して「我々は信じる」ではない。常に「一人称単数」で宣言するところに、信仰告白(Credo=I believe)の特徴がある。それは、集団の信仰共同体の中に個性を埋没させることではなく、あくまでも「一個人に徹する」ことを通じて、「普遍の教会」を信じることを宣言するのである。
ラテン語典礼訳 Credo in Spiritum Sanctum; sanctam ecclesiam catholicam; sanctorum communionem; remissionem peccatorum; carnis resurrectionem; vitam æternam. Amen.
英訳 I believe in the Holy Ghost; the holy catholic Church; the communion of saints; the forgiveness of sins; the resurrection of the body; and the life everlasting. Amen.
次に、「聖霊への信仰」が、同時に「聖霊のうちにある信仰」であること。聖霊こそが、そこにおいて「私は信じる」という信仰の生起する場所なのである。そして聖霊の場に於いて「聖なる普遍の教会」すなわち「カトリック教会」への信仰が生起する。
日本語訳の「聖なる普遍の教会」は英訳では、 the holy catholic church すなわち「聖なるカトリック教会」と訳されている。この点では、日本語訳の方が、良いと思う。ここでのカトリックとは、プロテスタントを排除するものではないからだ。アメリカのプロテスタント教会では、the holy Christian Churchと訳して、catholic という語を避ける場合もあるし、日本のプロテスタント教会では、「聖なる公同の教会」と訳すことが多い。ようするに、カトリックとは、公同的、普遍的といのが原義なのだ。
私自身は、「カトリック」という言葉を使うときは、いつでもこの、「普遍の教会」という原点に立ち返って考えている。けっしてプロテスタントに対するカトリックという意味に特殊化しない。プロテスタント教会もまた、使徒信条を自らの信仰の拠り所としている限りでは、カトリックでなければならない。ローマン・カトリック=カトリックと考える人もいるが、真に普遍的なものに、西も東もなく、ローマも東京もない。ラテンアメリカの人も、アフリカの人も、ヨーロッパの人に劣らずカトリック的であり得るのだ。
だから、カトリックとは民族という特殊性から自由でなければならないし、特定の教派の教会組織からも自由でなければならない。普通、ローマカトリックと呼ばれている教会組織もまた「真にカトリック的であること」が課題として与えられている-私は、こうなふうにカトリックという言葉を使っている。
さらにもう一歩を進めて、私は、日本の無教会主義のキリスト教、とくにその原理を旧約聖書にまで遡って理解しようとした関根正雄の「無」教会思想のなかに本来的な意味でのカトリックの原点を見ている。ここにいう「無」は単なる教会の否定ではない。「無」教会とは教会を否定することによって、それを復活させることに他ならないからだ。「無教会」の「無」の場所に徹するところに聖霊への信仰があり、聖霊の内にあることこそ、まさに誕生しようとしている教会の原点なのだから。
わたしも貴殿の意見に賛同します。
普遍の教会、公同の教会とは、主イエスに連なる
すべての教会が含まれていると思います。
使徒信条の祈りの際にも、普遍、公同の教会とは
一つの団体や教派の教会を指すものではなく、全
世界の教会を念頭に置いて祈っていると思ってい
ましたが、神父さまに普遍の教会についての見解
を聞いたところ、「ローマ・カトリック」だけを
指してると仰られたのでガッカリしましたが。(^_^;)
まだまだ。閉鎖的な概念も、普遍的なのでしょうか....。
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秋田の聖母マリアの奇跡を知っていますか?
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日本の兄弟姉妹の皆様、
秋田の聖母マリアの奇跡を知っていますか?
http://www.newlifejm.net/japan_top.html
1973年から1982年まで、秋田県秋田市郊外の小さな修道院で、
聖母マリアの不思議な出来事がありました。
当時は、世界的に大騒ぎになり、奇跡に立ち会ったカトリック神父が
出来事を記録した著作は、4ヶ国語に翻訳され、現在も世界で読まれています。
世界のカトリック教徒の間では「Our Lady of Akita」の名前で知られています。
私はこの奇跡の地に、人生の半ばで関わったカトリック教徒です。
現在、この秋田の奇跡を記念して、メダルを製作いたしました。
ホームページをご覧下さい。
http://www.newlifejm.net/feature_medal_akita.html
昨年9月に開設されたホームページは、現在までに世界57カ国からアクセスがあり、
現在も毎日平均53件のアクセスが世界中からあります。
世界11億人のカトリック教徒の間では、よく知られた出来事なのです。
東の果ての、現代の日本で起きた秋田の聖母マリアの奇跡は、世界のカトリック教徒に
敬虔な畏敬をもって受け入れられています。
現在も日本各地と世界から巡礼者が訪れている、日本のカトリックの隠れた聖地です。
■「普遍の教会」ということを、もっとわかりやすく噛み砕いて説明すると、「いつ・どこにでもおよぶ神の慈しみに信頼を寄せて生きる人々の集まり」と表現し直すことができます。
■ちょうど、「空気」みたいなものです。時間と場所の枠を超えて、というか あらゆる時代・あらゆる地域にわたって大気が満ちており、万物はそのなかでこそ生きていけるわけで、神の恵みのはたらきも「空気」みたいにあらゆるときにあらゆるところに満ちており、万物を活かしつづけていくのです。
■「普遍の教会」とは、神の慈しみに信頼して生きるあらゆる人々の関わりの姿なのでしょう。西洋で発達した「ペルソナ」の思想によって神と人間との深い関わりに焦点が当てられる哲学や神学が発達してきましたが、今後は神と人間との人格的関わりの視点のみならず「神と森羅万象の関わり」にも着目していくべきでしょう。この視点の拡張にあたっては、本覚思想の思索方法が役に立つと私は考えています。
■ところで、新井奥邃(あらい・おうすい)という 幕末から明治にかけて活躍したキリスト者がおりますが、彼の言葉を引用しておきます。誰が真のキリスト者であるか、という根本的な問いに応え得る適切な思索の言葉です。
「何教にせよ何学にせよ 其中に真の人道の含まるるあれば其含まるる限りは即ちクリスチャンにして 之に背ける者は総べて邪教なり。 基督教の標札を掲ぐと雖も邪教なり。 基督教の標札を掲ぐれば之を掲ぐる程愈益邪教なり。」(『新井奥邃著作集』第二巻、春風社刊)。
■新井奥邃の独自の思想は、日本人がキリスト教を深く理解していく際に学ぶに価する重要な考え方を現代にまで投げかけてくれています。春風社という出版社から全集が刊行中で、現在は第九巻まで刊行されました。最終巻も、もうじき出ます。インターネット上で、「春風社」というキーワードで検索すると詳しいことがわかります。
the unity of LOVE IS. "
-von Balthasar