歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

栁瀨睦夫先生の帰天十周年記念フォーラム

2018-12-09 |  宗教 Religion

栁瀬睦夫先生の帰天十周年記念フォーラムが土曜日の午後上智大学でありました。

 私が栁瀨先生とはじめてお目にかかったのは、昭和45年に東大駒場に新設された大学院に非常勤講師として出講され、「科学基礎論(量子力学の観測問題)」の演習を担当されたときのことでした。この演習は、おなじく非常勤講師として駒場に出講されていた本郷の哲学科の山本信先生、そして東大物理学科で栁瀨先生と同期だった大森荘蔵先生も参加され、院生達と三人の先生方による白熱したdiscussionが続いたのを覚えています。

 当時、私は、栁瀬先生の演習の他に、伊東俊太郎先生の「プラトンの講読」、山崎正一先生の「カント講読」「道元<正法眼蔵>講読」をとっていた記憶があります。

  栁瀨先生がカトリックの司祭、山崎正一先生は谷中の興禅寺のご住職でしたので、お二人とも哲学の道の出発点にキリスト教と仏教という普遍的な世界宗教がありました。

  今になって回想すると、科学・哲学・宗教の三つの領域の交差する場所で仕事をしてきた私は、様々な形で両先生の影響を受けていたのだなと実感します。

  私が『科学基礎論研究』に発表した最初の論文は「アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼンの議論とベルの定理ー量子論における分離不可能性」(Vol.19 No.3)、二番目の論文は
「アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼンの相関と相対性理論」(vol.19 No.4)でした。

 これは、当時話題となっていたベルの不等式の反証という実験的事実が意味するものは、量子力学の完全性をめぐるボーアとアインシュタインの論争点に決着をつけたものではなく、「局所的実在の分離不可能性」であるというのが私の第一論文の主題、そして「局所性の破棄」と相対性理論との関係が私の第二論文の主題でした。

「実在とはなにか」、と言う根本的な問いを回避せずに、分離不可能な全体をテーマにするという考え方、量子論と相対論を統合する(将来の)物理理論の基礎となる実在論はどのようなのとなるか、という問いかけを、私は、栁瀨先生と共有していました。

山崎正一先生は、日本哲学会の会長でしたが、のちに下村寅太郎先生等と共に「日本ホワイトヘッド・プロセス学会」を創設され、その初代会長となりました。数学者、理論物理学者、科学哲学者、宗教哲学者、刷新されたプラトン主義に基づく文明論にいたる形而上学の道を歩んだホワイトヘッドを私が大学院での研究テーマに選んだこと、また私が、山崎先生が創設された「ホワイトヘッド学会」の現在の会長を務めていることにも、先生との出会いという不思議な縁を感じます。

 12月8日のフォーラムでは、稲葉肇、江沢洋、村上陽一郎、小沢正直、青木清、の諸先生の後で、私も、
『「隠された実在論」と「永在場」ー 栁瀨睦男先生の遺著『神のもとの科学』を読む』という主題の講演をしました。

「隠された実在論」とは、私の理解するところでは、
「隠れたる神」が、科学・哲学・宗教(無神論者も含む)の立場の違いを超えて、万人にとって共通の実在であるという前提のもとに、万人に対して開かれた議論をしようという栁瀨先生の実在論の態度表明です。

それは「真か偽か、中間はない」という二値の形式論理を越えて、日常生活に於ける言語の曖昧さないし両義性を許容し、全ての他者とのコミュニケーションの共同体をめざす考え方と言えるでしょう。

そして、栁瀬先生は、スコラ哲学の硬直した形式主義を越えて、理性と神秘の間にたって思惟したトマス・アクイナスの原点に還って、刷新されたトマス的実在論の哲学ーそこでは超自然は自然を破棄せずに完成するーをご自身の哲学の立場とされました。とくに、宇宙に於ける人間の位置を、永遠と時間の中間にある「永在場」と捉えられたところにその実在論の特徴があります。

 『神のもとの科学』には栁瀬先生の自伝的な回想も含まれていますが、そのなかでも広島の原爆をきっかけとして物理学者からカトリック司祭の道を歩まれるようになった栁瀬先生のプリンストンでのオッペンハイマーとの交流、またキューバ危機の後に「地上に平和を」という回勅を出されたヨハネ23世教皇に触れている箇所が印象的でした。

ヨハネ23世は第二バチカン公会議を招集され、戦争の危機の時代に於けるカトリック教会の現代的刷新を開始された教皇でした。次いで教皇となられたパウロ6世の「我々の時代に nostra aetate」という宣言はユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、仏教と云った諸宗教の垣根を越えてカトリック教会が宗教間対話の重要性を認めるきっかけとなりました。このような諸宗教の立場を越えてすべての地上の人々に開かれた教会こそが、まことに「普遍の教会」の名に相応しいでしょう。

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