上智哲学会シンポジウム、今年は「西田哲学とキリスト教」がテーマであった。シンポジウムの席上にて、前田保氏より、滝沢克己と西田幾多郎およびカールバルトについて幾つかの論点が提示された。私はこのシンポジウムの企画者として司会者を務めたが、滝沢克己・西田幾多郎・カールバルトの相互の交流と批判という歴史的事実を踏まえて、そこでの議論を継続することの重要性をあらためて感じた次第である。いずれ論集において詳しく議論する予定であるので、ここでは滝沢の言う神と人との根源的関係、インマニュエル(神我等と共にいます)の原事実にかんするコメントを述べておきたい。
西田は同時代のドイツ哲学をさほど評価していなかった。新カント派や現象学は厳密なる学問的方法を哲学に要求することによって、認識論を展開したが、西田は、新カント派のカントではなくて、カント自身に立ち返り、批評主義の徹底は形而上学を要求することを指摘していた。
滝沢がドイツに留学するに当たり、どの哲学者に教えを受ければよいかと西田に尋ねたとき、西田は今のドイツには見るべき思想家はいないと言ったという。ハイデッガーについては、「肝心なものーすなわち神が欠けている」ことを不満とし、同時代の神学者達、なかんずくカールバルトが最もしっかりとした思索者であると滝沢に言ったという。つまり、滝沢がバルトを師とするようになったきっかけは西田が与えたのであった。
この点は、西田のもう一人の弟子であった西谷啓治が、ハイデッガーやニーチェに影響されたのとは対照的である。ハイデッガーには、バルトや滝沢のようなインマニュエル(神我等と共にいます)の原事実に立脚する「神の現臨の神学」はない。神は不在である、あるいは神無き時代において、存在論と神学を同一視する見地を批判しつつ、存在への問を問うことーこれが「存在と時間」の議論の成り立つ地平である。だから、そこには超越的な神は不在の儘で、人間の実存の「不安」の現象そのものが、あくまでも内在的に解釈される。このような思索は、西田にとっては物足りぬ物、「肝心の物がかけている」哲学なのであった。それよりも西田は、神学者のバルトの議論の中に、自己の哲学と相通ずるものを直観したと言ってよいであろう。
滝沢が西田から何を学び、そして何を批判したかは、滝沢の二つの著作「西田哲学の根本問題」「バルト神学の根本問題」という基礎文献があるが、西田の著作の中で、滝沢の名前を挙げてその批判に答えているような箇所は存在しない。西田は、他者を批判したり、他者からの批判に答えるという形で自己の哲学を語るというタイプの哲学者ではない。問題とすべき事柄自体を自己に対して明らかにすることが第一なのであって、他者を批判したり、他者からの批判に答えることは、彼にとってはあくまでも二義的であった。したがって西田は滝沢とは独立に理解すべきものであるが、滝沢は西田哲学抜きでは理解できない。おなじことはバルトについてもいえるであろう。しかしながら、このことは、滝沢が西田とバルトに対して提出した問いが重要でないと言うことを意味しない。滝沢の問は、西田哲学の最晩年の著作にあらわれる思索と深く関わりを持つものであるし、バルト神学立場を徹底することによってバルトを越えようとした滝沢の試みは、バルトその人に影響を与えることが無かったとしても、私にとっては深い意義を有する。
西田は同時代のドイツ哲学をさほど評価していなかった。新カント派や現象学は厳密なる学問的方法を哲学に要求することによって、認識論を展開したが、西田は、新カント派のカントではなくて、カント自身に立ち返り、批評主義の徹底は形而上学を要求することを指摘していた。
滝沢がドイツに留学するに当たり、どの哲学者に教えを受ければよいかと西田に尋ねたとき、西田は今のドイツには見るべき思想家はいないと言ったという。ハイデッガーについては、「肝心なものーすなわち神が欠けている」ことを不満とし、同時代の神学者達、なかんずくカールバルトが最もしっかりとした思索者であると滝沢に言ったという。つまり、滝沢がバルトを師とするようになったきっかけは西田が与えたのであった。
この点は、西田のもう一人の弟子であった西谷啓治が、ハイデッガーやニーチェに影響されたのとは対照的である。ハイデッガーには、バルトや滝沢のようなインマニュエル(神我等と共にいます)の原事実に立脚する「神の現臨の神学」はない。神は不在である、あるいは神無き時代において、存在論と神学を同一視する見地を批判しつつ、存在への問を問うことーこれが「存在と時間」の議論の成り立つ地平である。だから、そこには超越的な神は不在の儘で、人間の実存の「不安」の現象そのものが、あくまでも内在的に解釈される。このような思索は、西田にとっては物足りぬ物、「肝心の物がかけている」哲学なのであった。それよりも西田は、神学者のバルトの議論の中に、自己の哲学と相通ずるものを直観したと言ってよいであろう。
滝沢が西田から何を学び、そして何を批判したかは、滝沢の二つの著作「西田哲学の根本問題」「バルト神学の根本問題」という基礎文献があるが、西田の著作の中で、滝沢の名前を挙げてその批判に答えているような箇所は存在しない。西田は、他者を批判したり、他者からの批判に答えるという形で自己の哲学を語るというタイプの哲学者ではない。問題とすべき事柄自体を自己に対して明らかにすることが第一なのであって、他者を批判したり、他者からの批判に答えることは、彼にとってはあくまでも二義的であった。したがって西田は滝沢とは独立に理解すべきものであるが、滝沢は西田哲学抜きでは理解できない。おなじことはバルトについてもいえるであろう。しかしながら、このことは、滝沢が西田とバルトに対して提出した問いが重要でないと言うことを意味しない。滝沢の問は、西田哲学の最晩年の著作にあらわれる思索と深く関わりを持つものであるし、バルト神学立場を徹底することによってバルトを越えようとした滝沢の試みは、バルトその人に影響を与えることが無かったとしても、私にとっては深い意義を有する。