歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

蕉風俳諧のルーツ 1

2005-11-11 | 美学 Aesthetics
心敬を「中世の芭蕉」と最初に呼んだのが誰であるのかよく分からぬが、「ささめごと」、「ひとりごと」などの歌論書を読み、心敬の一座した連歌を読むにつけ、心敬から宗祇を経由し芭蕉に至る道筋が、はっきりと浮かんで来る。

    幽玄

中世の日本の美学理念の一つは「幽玄」である。この言葉は、論者によって様々に意味が変わるが、心敬の幽玄論を見てみよう。

 心敬の幽玄論は、恋の歌ないし述懐の歌について云われている点に特徴がある。彼はまず白楽天の「琵琶行」から左遷された官吏の真情を揚子江上に弾く琵琶の音色にたとえた詩文
尋陽江にものの音やみ、月入りて後、このとき、声なき、声あるに優れたり
を重視する。つまり耳に聞こえる琵琶の音色も哀れであるが、その音がかき消えて、月も西の山に沈んだ沈黙の瞬間こそが、「声ある」さまにまさる、ということーここに幽玄の詩情の原点を見ることができる。もうひとつは同じ白楽天の恋の詩、長恨歌の一節
春風桃李花開日
秋雨梧桐葉落時
である。これは楊貴妃を追慕する詩だが、この詩の風体を「幽玄躰」とよび、「歌・連歌の恋の句などにも、この風体あらまほしくかな」と結んでいる。ここでは、恋の情念は、直接には詠まれていないが、それらは余情として、詩文の行間の沈黙の中に切々と湛えられている。

 心敬は恋の句と述懐の句をとくに重視し、四季の景物を読む花鳥諷詠の句の上に置いている。恋と述懐の句は、「胸の底より出づべきもの」であって、決して安直に詠むべきものでなく、他の句にまさって沈思しまた推敲することを薦めている。

    さび

語りなばその淋しさやなからまし芭蕉に過ぐる夜の村雨
の一首をしめし「巫山仙女のかたち五湖の煙水の面影はことばにあらはるべからず」と言ったのは心敬である。美の本質は、対象にあるのではなく、その背後の余情において暗示されるべき事―これが心敬の連歌の「さび」の美学の根本精神である。
 「さび」の美学は、心敬以前にも俊成をはじめ様々な歌人が取り上げた。しかし、それらは、文藝上の最高の理念を表すという位置づけを持っているわけではない。そういう高い位置をもつに至ったのは心敬の連歌論をおいて他にはないようだ。
このみちはひとえに余情・幽玄の心・姿を宗として、言い残しことわり無き所に幽玄・感情は侍るべしとなり。歌にも不明体とて、面影ばかりを詠ずる、いみじき至極のこととなり。
このような余情・幽玄の美の理念を作品に実現するためには、できる限り言葉をすくなくし、言外に深き余情を湛えさせねばならない。このような連歌に於ける至極の境地をさして、心敬は「ひえ・さび・やせ」という語を用いた。
昔、歌仙にある人のこの道をば如何やうに修行し侍るべきぞと尋ね侍れば、「枯野の薄、有明の月」と答え侍りしと也。これは言わぬところに心をかけ、ひえさびたる方を悟り知れと也。境に入りはてたる好士の風雅は、この面影のみなるべし。
ここで心敬の言う「ひえ、さびたる」句を重んじる精神こそは、談林風の派手な俳諧から一転して、「誠の俳諧」を求めた芭蕉の「さび、しをり」の美学の源流にほかならない。      

     孤心

連歌は「連衆心」がなければ巻くことができぬ。しかし、そのような付合のなかで、我々は、それぞれが単独者であるという自覺を持つ場合がある。そういう「孤心」を表明する心敬の付句をあげよう。

  「我が心たれに語らむ秋の空」という句に

   荻にゆふかぜ雲にかりがね    心敬

「荻には夕風」、「雲には雁」がいて、秋の寂しさの中でもたがいにその心をふれあうこともできようが、この私には自らの心を語るべき相手ももうなくなってしまった、という意味が含まれている。

私は、この付け句を見て直ちに芭蕉の最晩年の句

  「この秋は何で年よる雲に鳥」

を思わずにはいられない。後世の芭蕉が「雲に鳥」によって意味したものが、心敬の付句を見ることによってまざまざと蘇り、はじめてその意味が身にしみた次第である。

     時雨の発句

応仁の頃、世のみだれ侍りしとき、あづまに下りてつかうまつりける(新撰菟玖波集)

     雲は猶さだめある世の時雨かな     心敬

おもふ事侍りしころ同じ心を(老葉)

     世にふるもさらに時雨のやどりかな   宗祇

興のうちにして俄に感ずることあり、ふたたび宗祇の時雨ならでも、かりのやどりに袂をうるほして、きづから笠のうちに書きつけ侍る(渋笠銘)

     世にふるはさらに宗祇のやどり哉    芭蕉

宗祇と芭蕉の句はよく知られているが、こう並べてみると、心敬の句がもっともオリジナルであると思う。宗祇の句は明らかに心敬を意識して作っている。そして芭蕉の句が宗祇の時雨の句を借りたことは明かである。心敬の句には応仁の乱を生きた作者の息づかいが聞こえます。雲は定めなきものであるが、その雲でさえ「定めある」と思わせるような乱世を「時雨」によって象徴した作品である。

       ありふれたものの詩情

   「名も知らぬ小草花さく川辺かな」

 といふ発句に

      しばふがくれの秋のさは水      心敬

発句の作者は蜷川親当で、後世の芭蕉の

     「よく見れば薺花さく垣根かな」

を想起させる句である。こういう句を見ると、心敬の一座した百韻で読まれた連歌と芭蕉の俳諧の風雅の精神との近さが実感できるだろう。

心敬の脇は、名もなき小草の花の「かそけき」有様を、秋の沢水の「冷え冷えと清みた」風情をもってつけた句である。「しばふがくれの」水は、その身にしみるような清冽さを表には見せない。しかし、このような発句と脇の呼応の中に、心敬は「月花の名句」に勝る詩情を見いだしていたに違いない。

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蕉風俳諧のルーツ 2

2005-11-10 | 美学 Aesthetics
蕉風俳諧の美学


芭蕉の俳諧の根本精神を表す言葉として「匂ひ」を取り上げよう。

「附心は薄月夜に梅の匂へるが如くあるべし」(祖翁口訣)

薄月夜とは、雲などに遮られてぼんやりと月が見える様。くまなく見える月ではない。この美学は、心敬のいう幽玄の美学の系譜に属する。あらわなもの、明るすぎるものは、読者の想像力を働かせる余地がないが故に詩情を喚起しない。「薄月夜の梅の匂ひ」のごとく、かすかなるものほど、ほのかなるもののなかに隠れている美を象徴することーここに蕉風美学の出発点がある。「匂ひ」とはそれをあらわす独特の用語。

「匂ひ」という言葉は、風雅の「風」と縁のある言葉である。風は、多くの言語では「霊」的なもの(インスピレーション)と同義であり、それ自体は言語で記しがたいものであるが、藝術や宗教の生命を象徴する。その風が「雅(みやび)」であって「俗」でないことを要求するのが「風雅」という言葉である。芭蕉晩年の弟子の一人である惟然から、風雅とはどういうものかと尋ねられた芭蕉は、「句に残して俤にたつ」ことだといっている。(一葉集遺語)
「句に残す」とは、句のなかで言い残して、却ってその「おもかげ」にたつことが風雅だというのである。

従って、蕉風俳諧では、「言い尽くす」こと「言い畢ほす」ことが嫌われた。たとえば

   下伏につかみわけばや糸桜

という句を去来が「糸桜の十分に咲きたる形容よく言ひ畢ほせたるにあらずや」と賞賛したのに対して、芭蕉は、

  「言ひ畢ほせて何かある」

と答えたという。去来はそのとき初めて肝に銘じて「発句になるべきこととなるまじきこと」を知ったと回想している。

「匂ひ」は、しかしながら、発句のような短詩を成立させる技巧と見るべきではない。技巧のような作為は、こころの風光を漂わせる自然なる「匂ひ」とは正反対のものだからである。
「附といふ筋は匂、ひびき、面影、移り、推量などと形なきより起るところなり、心通ぜざれば及び難き処なり」(三冊子)
それでは、匂附の実例としてどんな附合があるのかを見てみよう。鬼貫が幻住庵の芭蕉のもとを訊ねたときの歌仙、「夏木立」の巻から例を引く。

    うすうすと色を見せたる村もみじ   芭蕉

に対して、どういう付けがよいのか。その場では、次の四句がでたが、どれも芭蕉によって却下された。

一 下手も上手も染屋してゐる
二 田を刈りあげて馬曳いてゆく
三 田を刈りあげてからす鳴くなり
四 よめりの沙汰もありて恥かし

最後に

   御前がよいと松風の吹く   丈草

という付けが出たときに、はじめて芭蕉は印可したという。芭蕉の門弟達が、この附合を「匂ひ」付けと呼んだことは、俳諧芭蕉談のつぎの言葉に明らかである。

「御膳がよいと云う松風は、うすうすと色を見せたる匂ひを受けて句となる。心も転じ、句も転じ、しまこその力をとどめず、これを「にほひ附」といふ。」
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晩年の芭蕉の俳風のことなど

2005-11-09 | 美学 Aesthetics
12月3日は日本科学哲学会のシンポジウムがあるがその一週間後、12月10日は北本市で、連歌と俳諧についての講演の予定が入っている。二年前から、コミュニティカレッジで、若葉の鈴木主宰、国文学の大輪先生と共に「連歌から俳句へ」という公開講演をしているが、今回の北本市での講演もそれと同趣旨のものである。このブログの「藝術の思想」というカテゴリーに関連する記事を書くつもりである。

10年前より桃李歌壇という連歌と俳諧のサイトを運営しているが、そこでは、相互主体性の詩学、ないし「場所の詩学」ということをモットーとしてきた。俳句の句会とか連歌俳諧の座というものに、近代文学や近代の詩を越える可能性を感じたからである。それと同時に、WEBサイトを利用して作品を自由に出版することを考えた。バーチャルな結社ではあるが、これまでに百韻連歌や歌仙も巻き、俳句の合同句集も出版した。これらはすべて、同じ人間が、作者・鑑賞者・批評家を兼ねること、各人が創作の主体であると同時に客体であること、という相互主体性の座の藝術の可能性を企投した結果でもある。WEBという媒体には様々な問題性があるが、俳句や連歌のようなジャンルはもっともそれに適していると云うことは、この10年ほどの経験で確認したところである。

昨日、桃李歌壇の連歌百韻興行に参加して頂いた真奈さんより、10月末に行われた国民文化祭での宮坂静生氏の講演「芭蕉の求めたるものー芭蕉・去来・浪化三吟歌仙をめぐる「あらび」について”についての話を伺い、大いに興味を覚えた。この「あらび」という言葉は、
「俳諧あらび可申候事は・・・、ただ心も言葉もねばりなく、さらりとあらび仕候事に御座候。」(元禄七年五月十三日、浪化宛去来書簡)
にあるが、この概念に注目されたのは鋭い着眼であると思う。

晩年の芭蕉の境涯を示すものとして良く言及される「かるみ」と「あらび」とは如何なる関係にあるか。また、「あらび」と「かるみ」とは何処が違うのか、など、この概念については、まだまだ研究すべきことが残っているように思う。

「あらび」という言葉を芭蕉や去来が如何なる意味で使ったかを正しく捉えるのは難しい。この言葉は古くからあるが、その元来の意味は要するに「荒らび(洗練されていない、粗野である)」ことだろう。元来は悪い意味で使われた言葉ではないか、と思う。「荒びたる句」とは、風雅の精神とは矛盾する句、素人のような句という意味があったにちがいない。それを敢えてプラスの意味に転じて使うところが、俳諧の俳諧たるところではないか。

蕉風俳諧が俳諧の初心である世俗にたちかえり、俗語のエネルギーを吸収しつつ、「世俗の直中における風雅」を目指そうとした、そのへんに「あらび」が、蕉風俳諧のキーワードとなる事情が潜んでいるように思う。

一見すると俗っぽい、荒々しい表現の中に、高雅な表現でも及びも付かないような詩情が表現されることがある。

浪化、去来、芭蕉の三吟歌仙を例にとると

    につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉

は俗語の「につと」を冒頭に置く、文字通り「荒っぽい」句だと思う。あえていえば素人臭い措辞。この時期の芭蕉は、どちらかといえば、凝った句作り、格調たかく見える句(しかし、その實は陳腐な句)を避けることをモットーとしていたと思う。

能楽論では、一度名人の位に達したものが、その位置に満足せずに、あえて俗な表現、掟破りの芸風を示すことを「闌位(たけたる位)」という。一度高雅な表現を身につけたものが、それに満足せずに、自己を否定して、もういちど世俗の世界に帰っていくという意味が込められる。

「去来抄」の先師評では、上の三吟歌仙の付句が引かれている。去来は、最初は

   につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉
 すつぺりと花見の客をしまいけり 去来

と付けたが、これでは、俗語が重なって煩わしい。つまり、「につと」に「すつぺりと」と続いて品のない句になってしまった。世俗に世俗を続けることは芭蕉の望むつけではないと直観した去来は、

   につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉
 陰高き松より花の咲こぼれ    去来

とした。これは一転して連歌風の格調の高いつけにみえる。俗な前句に高雅な景をつけ、しかも、定家の

   春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるるよこぐものそら

の面影付になっている。こういう付句は、たとえば「冬の日」の時代の蕉風俳諧を思わせるものである。しかし、晩年の芭蕉は、こういうつけかたにマンネリズムを感じていたのではないか。「陰高き」という連歌的な凝った表現を嫌って、素人にも分かりやすい俗語を選び、去来の句をひと直しして

    につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉
  青みたる松より花の咲こぼれ   去来

これが、この時期の芭蕉の目指した付け方なのである。

真奈さんによると、宮坂氏は、

     此秋は何で年よる雲に鳥   (病床吟)

を「あらび」の生涯句であるといったとのこと。たしかに「此秋は何で年よる」という口語的な表現と「雲に鳥」とのあいだの「切れ」のすさまじさは、鬼気迫るものを感じる。 俗語を詩語に転じるとか、おもくれを嫌い、平明な表現を尊ぶという点では「かるみ」と共通しているが、「あらび」には「かるみ」にはないもの、あえていえば鬼神をもおどろかす詩情の冴えがあるようだ。

追記(11月11日)

「荒び」「荒きこと」が、元来、負の評価を表す言葉であることは、北村季吟の次の用例を見ると判る。
「(古今集の俳諧歌について)この俳諧歌はざれ歌といふ。利口したるやうの事なり。又、俳諧といふ事、世間には荒れたるやうなる詞をいふと思へり。この集の心さらにしからず。ただ思ひよらぬ風情をよめるを俳諧といふなりと申されし。されど、荒き事をもまじへたるなり」
この「あらび」を正の評価語として使用した例が、去来の浪化宛書簡の次の箇所である。
「俳諧は『さるミの』『ひさご』の風、御考被成候而可被遊候(おかんがへなされてあそばさるべくさうらふ)。其内、『さるミの』三吟ハ、ちとしづミたる俳諧ニて、悪敷いたし候へば、古ビつき可申候まま、さらさらとあらびニてをかしく可被遊候(あそばさるべくさうらふ)。俳諧あらび可申候事(まうすべくさうらふこと)ハ、言葉あらく、道具下品の物取出し申候事ニてハ無御座(ござなく)、ただ心も言葉もねばりなく、さらりとあらびて仕候事ニ御座候。尤(もつとも)、あらき言葉、下品の器も用ヒこなし候が、作者の得分ニて御ざ候。嫌申にては無御ざ候(ござなくさうらふ)。」
去来は『さるみの』と『ひさご』の俳風を学ぶようすすめているが、自分も加わった三吟歌仙を「沈んだ俳諧で出来が悪く古びている」と否定的な評価を述べ、「ひさご」は「はなやかな俳諧」であると評している。「さらさらとあらび」て面白い句作りをすべきだと言う去来のことばが、「さるみの」と「ひさご」を対比して、前者を「しずんだ」悪しき古びた俳諧として、後者を「はなやかな」俳諧として評価する文脈で書かれていることに注意すべきであろう。
ここで言及されている猿蓑の三吟とは、凡兆・芭蕉・去来の歌仙である。

     市中は物のひほひや夏の月    凡兆
       あつしあつしと門かどの聲  芭蕉
     二番草取りも果たさず穂に出て  去来

とつづく優れた歌仙であって俳諧の新古今集といわれた猿蓑に相応しい歌仙である。去来は、じみで古びていると否定的な表現を穿いているが、それは裏を返せば、猿蓑には「さび」の美があるということでもある。事実、其角はこの歌仙の芭蕉の恋の付句を評して
 「この句の鈷(サビ)やう作の外をはなれて日々の変にかけ、時の間の人情にうつりて、しかも翁の衰病につかれし境界にかなへる所、誠にをろそかならず」(雑談集)
と言っている。冬の発句、それも時雨を季題とするものを巻頭に置く猿蓑は、その序を書いた其角にとっては「さび」の美を表現した句集である。そして、其角は、去来が「軽み」の俳風とよび、また「はなやかな」俳諧と呼んだ「ひさご」は評価しなかった。
これは、其角と去来の芭蕉没後の俳諧の道のあり方と関連するであろう。
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芭蕉の「旅懐」の句

2005-11-08 | 美学 Aesthetics
先日、ある学生から、

この秋は何で年よる雲に鳥

という芭蕉の句のどこがよいのか判らないと言う質問を受けた。私には有無を言わせぬほど身に迫る句であるが、人によっては実感できないのだなと思った。

俳句は、「言い畢せて何かある」省略の文藝であるから、その鑑賞は読者の想像力に委ねている部分が多い。句の内容に無条件で共感できるような場合もあるが、そうでないこともある。それは年齢の問題もあるだろうし、作者と読者の境涯の差ということもある。何処がよいのか判らい、といわれたときの難しさがそこにある。こういう質問をされた場合、自分に出来ることは、たとえ質問者にとって今は実感できなくとも、将来いつか理解してもらえるような普遍的な言葉を探しながら、自分自身の鑑賞を述べることだけである。

この句の理解は、下五の「雲に鳥」の鳥のもつ象徴的な性格にかかっている。この鳥はどんな鳥だと思うか、と聞いてみた。その学生は暫く考えたあとで、「やはり渡り鳥でしょうね、留鳥ではまずいですね」といって、そのとき何かを自得したような感じであった。

もっとも、「鳥雲にいる」といえば俳句では春の季語である。この句は秋に詠まれているから「雲に鳥」となっているが、渡鳥であることは間違いない。(単に「渡り鳥」といえば、俳諧では秋を指す)芭蕉には

日にかかる雲やしばしのわたり鳥

の句もある。そして、この渡り鳥に向けられた感慨は、当然、旅を栖とした芭蕉自身の姿と重なるのである。何処から来て何処へゆくのか分からぬものの、雲の彼方に消えていく鳥の姿が、束の間、夢幻のごとく、この世に生存する作者自身の境涯の象徴になっている。

この句は、笈日記・追善之日記・三冊子などの俳書にあるが、いずれも「旅懐」の句として扱っている。旅先で病を得て、老衰がとみにすすんだことに驚き、旅を続けることができるかどうか不安を覚えたときの句である。「何で年よる」は「どうしてこんなに年老いたことを感じるのだろうか」という意味であるが、俗語的な表現であるだけに直接的な哀切の響きが感じられる。

笈日記や三冊子に

「下の五文字に寸々の腸(はらわた)をさかれるなり」

とあるように、この句の下五「雲に鳥」は、実際に眼前に見た光景を写生したものではなく、「この秋は何で年よる」で一端、句を「切った」あとで、もっともそれに相応しい附けを苦吟した挙句に、芭蕉の詩的構想力によって、象徴的に付けた句である。したがって、この鳥に、私は、あくまでも芭蕉の「孤心」の反映として、雲の彼方に消えていく「孤影」を感じます。沢山の鳥が飛んでいる様を叙したとは思えない。「寸々の腸をさかれるなり」とは凄まじい、鬼気迫るいいかたである。老衰を嘆く芭蕉の他に、生死の境にいる自己を詠むもう一人の芭蕉がいる。

芭蕉の門人達の書き残している「芭蕉終焉の記」などを読むと、表現する者、創造者としての芭蕉は最後の最後まで句作にあくなき情熱を傾けていたことがわかる。「旅する人間」「旅において生死する人間」を句に表現しようとする情熱、創作にかける執念が死の直前まで旺盛で止むことがなかったのである。
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「小さき声」復刻-第13号について

2005-11-08 |  文学 Literature
小さき声の第13号を復刻した。42年前の9月に書かれた文章である。秋の虫の声を聞きながら松本さんが思ったことーそれが率直に綴られている。全生園は草木の多い所であるから、虫の大群のうめきは、松本さんには、「無数に地の底から湧き上がってくる」ように聞こえる。決して俳人が虫時雨と形容するような生やさしいものではない。その声は松本さんにはどのように聞こえたのであろうか。

松本さんは旧約聖書詩編22の6節
「しかし、わたしは虫であって、人ではない」
を引用する。旧約聖書では「虫」は人間の尊厳を踏みにじられたものの象徴である。松本さんは、妻と死に別れ、肢体不自由である上にさらに盲目となり、来る日も来る日も壁に向かって「石のように」座しているような状況、「神の言葉の飢餓」に苦しんでいるさなかに、旧約聖書のこの言葉にであう。詩編22の1節は、イエス十字架の上で言われた言葉でもある。 松本さんは、パウロの次の言葉も引用している。
「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」(ロマ書8章22節)。

「小さき声」の第二号に書かれた「ミミズの歌」では松本さんはご自身を、土を食らっていきるミミズに喩えている。光りを奪われた自己が生きる世界はまさにミミズの生きる地中の世界であり、自己の体内にできる「空洞」を神の言葉が通過する、そういうすさまじい心象風景を彼は詩にしていた。そういう松本さんにとって、秋の虫の集く声は、そのまま救済を求める被造物の訴えに重なる。十字架に付けられたイエスは、詩編22の詩人が予言した如く、人間であることさえ放棄して、みずから虫となって、松本さんに直に語りかける存在である。キリストは神とひとしきものであることを放棄して人間になられた。そして十字架の死を引き受けられたとき、人間であることも放棄され、「虫」になられたのである。それはすべて苦しみの中にいる被造物を救うためであったーそのようなイエスに出会い、自己自身よりも低きところに、苦しみの底の底まで、絶望の底の底までくだりたもうたイエス。その十字架上の死に自己自身を重ねるところにキリスト教への回心があったこと、このようなイエスを信じる復活の信仰こそが自己を活かすものであること-この原体験を伝えるために、松本さんは繰り返し繰り返し、自己の回心の瞬間に立ち返るのである。
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二つのシンポジウム

2005-11-07 | 日誌 Diary
来る12月3日(土)に二つのシンポジウムが重なってしまった。一つは検証会議の評議員である浜崎真實氏が企画された「ハンセン病とカトリック」というシンポジウムで、全生園の愛徳会聖堂で開催される。愛徳会のかたもお話になられると言うことで、本来ならば私も出席したいところである。同じ日に別のシンポジウムがある。それは、東大駒場で開催される日本科学哲学会のシンポジウムで、アインシュタインの相対性理論発表100年を記念するもの。現在の関心からすると、全生園のシンポジウムの方に出たいところであるが、相対性理論のシンポジウムは、日程が先に決定されており、私はパネリストの一人として呼ばれているので、こちらの方に出席しなければならない。残念ながら、「ハンセン病とカトリック」の方を欠席することとした。もし、愛徳会聖堂でのシンポジウムの出席者が翌日まで全生園に滞在されるのであれば、なんとか都合を付けて、いちどお目に掛かりたいと思っている。

ところで、アインシュタインの相対性理論について、私が研究論文を幾つか発表したのは、20年以上以前のことである。米国の学会で、アインシュタインとホワイトヘッドの重力理論の比較をテーマとして話したが、私の関心は、時間・空間・物質・出来事というようなもっとも基礎的な物理学のカテゴリーに対し相対性理論が与えた影響を哲学的に考察することであった。それと同時に、パラダイムのことなる二つの理論の比較と実験的検証が如何に行われるかという問題を、アインシュタインとホワイトヘッドの重力理論の比較という見地から行うものであった。当然の事ながら、それは科学史や科学哲学の研究と重なるところの多いものであった。

20年を経過したあとで、現在の私は、科学哲学から宗教哲学へ、そして医療倫理や生命倫理のような実践哲学へと関心がシフトしている。そういう状況ではあるが、現在の私が、アインシュタインの理論について言いうることは何であろうか。それは、歴史的な研究でも、狭い意味での科学哲学でもなく、アウグスチヌスやアリストテレス以来の哲学的な背景の中で、我々自身によって生きられた時間と、時計によって計測された時間との関わりを問うことであろう。時間ほど我々にとって身近なものはないが、それと同時に、我々にとってもっとも理解の困難なものは無いからである。

プロセス日誌では、適当な時期に様々なカテゴリーに記事を分類することにしているが、これらの様々な主題がどのような形で収斂するかは、今のところはっきりとした見通しがあるわけではない。すべてがわたし自身が思索した様々な事柄、行動した様々なことの雑多なる記録にとどまっている。諸々のカテゴリーを越える普遍性ないし統一性は、これからあとの課題である。 

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小笠原登の書簡

2005-11-06 |  宗教 Religion
先日の全生園祭の図書館展示より、小笠原登より鈴木重雄(田中文雄)に宛てた書簡を村井澄枝さんより画像にして送って頂いた。鈴木重雄は戦後まもなく、光田健輔の強制収容政策に協力したとして、愛生園の自治会より厳しく批判されたことからも判るように、終戦後しばらくの間まで、小笠原登の考え方を「異端邪説の徒」と考えていたとのことである。その鈴木氏が、退所して社会復帰されたあと、「内心の疑問」を解決するために「小笠原博士に一度あってみたい」との思いに駆られ、昭和38年秋に大阪で初めて小笠原博士に会われたとのこと。当時博士は、水俣病にも深い関心を持ち、調査していたとのことである。昭和42年の「多磨」誌に、「京都大学ライ治療所創設者-小笠原博士の近況」という文を寄稿している。これは、小笠原登について言及するときに良く引用される貴重な資料である。

 鈴木重雄は、光田と小笠原を比較して次のように言っている。
光田先生は、日本のライ学会では、いわば陽のあたる場所を歩き通し、自説の儘に日本のライ管理制度を確立し、運用し、朝日文化賞、文化功労賞、文化勲章など、数々の社会的、国家的の栄誉を受けている。又、先生の業績を伝えるために伝記風の「回春病室」「愛生日記」「癩に捧げた80年」等の刊行も為されている。
 小笠原博士の方は、全く光田先生とは対照的である。即ち、日本ライ学会の主流の外の、陽の当たらない場所で黙々として自説に生き抜いて来たというべきか。
鈴木は、光田先生の論敵として自説を曲げず、政府の救癩政策に抗して通院治療を続けた小笠原に、「気性の激しい、傲岸さが顔にまでもにじみ出ていイカツイ風貌の人物であろう」と思っていたが、実際に、小笠原に初めてあったときに、「仏像のような柔和な微笑を湛えた長身の老人」にあって驚くのである。

晩年の小笠原も、その長年にわたる医療活動が評価されるようになり、藤楓協会その他の団体から表彰されるようになる。甚目寺まで小笠原を訪ねた鈴木への礼状の中で、小笠原は医学振興賞受賞を祝う鈴木の祝詞にたいして謝辞を述べたあとで、受賞時の感慨を次のような詩に託している。
一(もっぱら)ら世恩に委せて俗縁を離る
吾が年八十 烟よりも淡し
朝は来り夕は去って蹤跡なし
光彩何ぞ期せん 地天に満ちんことを

(六月二十五日表彰牌を受く)

無願兼(ま)た無行
何によりてか徳功有らんや
頌詞今手に在り 漸汗南風に冷ややかなり
この詩を詠んだあとで彼は

「世恩に計らはれるがままに無為自然の生を送りたいと念じて居ります」

と、恬淡とした東洋的諦観を述べている。これは彼の詩の中の「無願兼無行」に応じる詞だろう。こういう諦念は、博士の場合は、決して静寂主義に陥るのではなく、むしろ古希を迎える歳に奄美和光園に赴任したこと、そこでの医療奉仕という世俗の活動的生の直後に言われていることに注意したい。無為自然といっても、博士の場合は、多数者の偏見に流されることはなく、むしろその偏見や迷信をズバリと指摘され、臨床医として首尾一貫した実践活動を貫かれたのである。
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控訴断念(楽生院)と告示改正(ソロクト)の呼びかけ

2005-11-05 |  宗教 Religion
読売新聞(online)韓国・台湾ハンセン病訴訟、原告ら包括救済へを読みました。包括救済を目指すと言うところは一歩前進ですが、控訴後和解という方針を採用するところ、血の通わぬ官僚的思考法が残っています。原告の高齢であることを配慮すべきです。台湾楽生院判決については控訴断念、韓国ソロクト判決については告示改正という選択をするように働きかけましょう。

ハンセン病市民学会の宗教部会MLに、弁護団からの次のメッセージが届けられました。この週末から月曜日にかけて、みなさんの声を再度、メール、Faxで首相官邸に届けてほしいとの呼びかけです。

      「声」の送り先

官邸→http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html
FAX 03-3581-3883

〒100-0014 千代田区永田町2-3-1 首相官邸
内閣総理大臣 小泉純一郎 殿

厚生労働省→https://www-secure.mhlw.go.jp/getmail/getmail.html
FAX 03-3595-2020
メール  www-admin@mhlw.go.jp

〒100-0013 千代田区霞ヶ関1-2-1 厚生労働省
厚生労働大臣 尾辻秀久 殿

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  (以下の声明文を参考にして下さい)

    声明

2005(平成17)年11月5日

小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団(代表 国宗直子)

東京地方裁判所民事第38部が言渡したハンセン病補償金不支給処分の取り消しを命じた判決の控訴期限が11月8日に迫っている。

一部報道機関では、厚生労働省は、控訴を断念すれば、台湾の入所者にハンセン病補償法に基づき、最低800万円の補償金を支払うことになり、補償金額や補償対象者の認定方法に検討の余地がなくなる等との理由から、控訴をした上で和解を目指す方針であると報道されている。

しかし、厚生労働省のかかる方針は、以下の理由から断じて受け入れることはできない。

第1に、原告らの早期救済がはかられない。原告らの年齢は平均81歳を超えており、小鹿島更生園の入所者だけでも、補償請求後、既に21人が死亡し、本年8月から現在に至るまで3ヶ月間の死亡者は5名を数えている。控訴して和解協議により解決するという枠組みでは、解決が大幅に遅延し、生きて解決を得たいと願う原告らの悲痛な願いを踏みにじることになる。

第2に、原告らの平等な救済が実現できない。原告らはわが国の隔離政策の被害者としてわが国のハンセン病患者と同等もしくはそれ以上に過酷な被害を受けてきたものである。この点は、厚生労働省自身が救済の基本的方針の根拠としてあげているハンセン病検証会議最終報告書に明かである。従って、補償法の趣旨や平等原則に照らし、日本国内の療養所の入所者と補償金額の格差をつけることはできない。控訴審におけ
る和解により金額に格差を設けることは、新たな差別を生むことに他ならず、補償金額の見直しを目的とする控訴は断じて認めることはできない。

第3に、補償金支給に当たっての認定方法の問題は、支給審査の段階における技術的な問題にすぎず、必要とあれば別途ルールを策定すれば足りるのであり、解決の枠組み自体を左右するような問題ではなく、到底控訴をする理由とはなりえない。控訴断念なくして本問題の救済はない。

原告らの請求を認容した民事38部の判決はもとより、同3部の判決も現行の補償法下で告示に占領下の療養所を含めて規定することは可能であるとの解釈を示している。

政府は、控訴を断念して告示改正による早期の平等救済をはかるべきである。今こそ政治的な決断が求められている。

我々は、控訴期限ぎりぎりまで控訴断念を求めて全力で闘い抜く決意である。
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「小さき声」復刻版の校正

2005-11-04 |  文学 Literature
「小さき声」復刻版の校正作業を、志を同じくする方々と続けている。この作業は、誤植の訂正だけでなく、聖書の引用などについては本文批判も必要なので、時間をかけて行わねばならない。幸い、多くの方からメールで誤植や、編集ミス、口述筆記故の誤記の可能性についてのご指摘を戴き、それを参考にしながら、テキスト批判の作業を続けている。
 ところで、第8号の聖書引用について、無教会信徒の「旅人」さんから貴重なご指摘を戴いたので、それを報告したい。(「旅人」さんは晴読雨読で内村鑑三の研究をされている方である)「旅人」さんによると、「小さき声」第8号のヨブ記の引用
「ヨブが鎖を父と言い、蛆を母姉妹と呼んだ」
では、「くさり」という言葉が漢字で「鎖」となっているが、これは聞き間違えではないかとの事であった。松本さんの言葉は、次の文語訳聖書(ヨブ記17章14節)を引用したもの。
「われ朽腐(くさり)に向ひては汝はわが父なりと言ひ、蛆に向ひては汝は我母わが姉妹なりと言ふ」
つまり、「くさり」という言葉は、上の「朽腐(くさり)」を意味していたのであるが、筆記された方がそれを、「鎖」と誤記したものであったことが判明した。こういう箇所は、原本のテキストそのものを訂正しなければならない。

「旅人」さんの指摘を受けて、私も幾つかの聖書の翻訳と注釈にあたって上記の箇所を確認してみた。該当するヨブ記の箇所は、翻訳が訳者によって異なる。口語訳聖書では、「墓の穴を父と呼び」と訳す事が多い。参考までに、C.F.Keil and Delitzch の旧約聖書注解(これはその霊的な深さによって内村鑑三が傾倒した旧約聖書の注解シリーズ)のヨブ記の箇所を見ると

14 I cry to corruption: Thou art my father!---
To the woom: Thou art my mother and sister!

とあり、「朽腐」と同趣旨の語(corruption)で訳されている。おそらく、これが伝統的な訳語のようで、カトリック教会の注解付き英訳Catholic Study Bible でも corruption となっていた。これに対して、TEV(英語口語訳)では grave(墓)となっており、関根正雄も「墓の穴」と訳しているので、現代の聖書學では、「墓穴」という訳を選択する人のほうが多いのかも知れない。
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神谷書庫にて

2005-11-03 |  文学 Literature

    

10月末に、岡山のノートルダム清心女子大で開催された中世哲学会に出席。帰京の途中で、長島愛生園の神谷書庫に立ち寄る。この書庫には、日本各地の療養所で出版された園誌のバックナンバーがほぼ揃っている。全生園祭の展示「極限を生きた療友達の記録」で、昭和25年に出た「灯泥」という詩誌の創刊号を捜していると聞いてたので、多磨全生園関連の書棚を見ると、そのすべてのバックナンバーがあったのには驚いた。この神谷書庫の文献を蒐集・管理された入園者の方々のご努力に頭が下がる思いがした。とりあえず、「灯泥」の創刊号をコピーしたあとで、明石海人関連の資料を読ませて頂いた。印象深かったのは、海人自身が書写した万葉集。これは眼が見えなくなる前に、毛筆で大きな文字で丁寧に一首ずつ書き取ったもの。敬虔なる仏教徒が写経するのと同じように、万葉集を書写することで海人は万葉人の心を学んだのだろう。

また、愛生園入園前のものを含む明石海人の最初期の歌稿や、俳句ノートもあった。俳句ノートは自由律が主であり、一つの題をもとに連続して百句近く詠むなど、精進の様が偲ばれる。海人は、俳句連作を試みたあとで次のように言っている。

少し眼を使ったら、ぢき虹彩炎で真紅に充血して痛み、起きて居たら発熱するようなこの頃に、いろんなことをやらうとするのは多分無理だらう。日は暮れて道遠しの感に堪えない。もう十年生きたら、歌も句も相当な処まで進むだろうと思うが・・・・。だが、六尺の病床を天地として、あれだけの仕事をなしとげた子規の事を思ふと、うかうかしては居られない気がする。
 生くる日の限り、日に新に日に日に新に成長してゆきたいものだ。
晴れた六月の陽は美しい。金魚草花菱草小町桜が、青葉の中に紅、白、紫、黄、とりどりに輝いてゐる。庭先の崖際には松葉ボタンが開きスヰートピーが匂つてゐる。人生の日暮れに近づいて、いよいよこの世の美しさが身にしみる。雀の声まできれいにきこえる。

この文章を書いているとき、海人は「人生の日暮れ時」にいることを自覚していた。30歳代で「日暮れ時」と言わねばならぬ境遇をかこつことはなく、たんたんとその心境を述べている。「生くる日の限り、日に新に日に日に新に成長してゆきたいものだ」とは、おそらく海人自身を勇気づける言葉であったろうが、それを読む私自身をも勇気づける。自己の最期の時を自覚しながらも、それまでに許された限られた未来の時間において「日に日に新たに成長する」ことを希望しつつ、現在を平常心で生きること-こういう生きざまを示す言葉には滅多に出会えない。

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全生園祭にて

2005-11-02 | 日誌 Diary
  


11月3日まで、全生園祭が開催される。今日(2日)午前中は、コミュニティセンターのハンセン病図書館企画「極限を生きた療友達の記録」の会場係を務めた。この企画は、図書館主任の山下道輔さんの仕事の内容(製本や各地の療養所の資料収集など)を一般に紹介するとともに、困難な時代を生き抜いた療養所の人々の記録を伝えるのが目的である。友の会の会員の方が作成されたどのパネルも工夫があり、素晴らしいものであった。12時半に、橋本さんと係を交替して、昼食をとり、前田先生と合流。講演会の筆記原稿など拝見した。その後、自治会長の平沢さんとかなり長い間、立ち話。松本馨さんの思い出など、個人的な興味深い話を伺った。午後は図書館の展示室の「松本馨写真展」と田中文雄・神谷美恵子の「資料展」の展示係。こちらも盛会であった。

写真左は、コミュニティ・センター会場、恵泉女子大の荒井英子先生が女子学生達とともにこられた。写真右は、図書館展示室。何時もと違って大勢の来館者で、スリッパの数が足りなくなるほどであった。朝日新聞の記事をみて来館された方が多かったようである。
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