エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

乗鞍紀行・・・せせらぎ

2013年05月16日 | ポエム
せせらぎ・・・という概念に拘泥してしまった。
これはいかにも拙い。
男が、母性に憧憬するのは偉大なるコンプレックスである。



だがしかし「女にはけ口を求める」のは、決定的に不快であるし断固拒否する。
H氏なる男も、一度のりくらに来るとよい。
乗鞍という汚れ無き大地が、足を踏み入れる事を許すのなら、という前提条件でである。

H氏は、この小さな木橋を渡れず女性を蔑視するルビコン川を一人渡ったのだろう。
H氏の概念という歴史は、逆回転しているのだろうと思う。
寂しい人である。

さて、本題に戻ろう。



乗鞍の主宰の山荘の下は、小さな、だがしかししっかりとした流れがあって「せせらぎ」が聞こえてくる。
それは民宿の風呂に入っているときだって、そうだった。

せせらぎの音は母の胎内の優しさであると云う。
きっと、それは「心音」であったり「羊水」のたおやかなゆらぎであったりする「ゆりかご」なのだろう。
揺籃・・・そう揺籃であるのだ。







「揺籃の乗鞍の山春おそし」







ぼくは、この乗鞍紀行で改めて揺籃を想起し、母の胎内にあった日々の穏やかさを記憶としての揺籃を感じたのであった。
母に守られた日々が、懐かしく脳裏を駆け巡った。



先日紹介した「川戸飛鴻先生」の句碑に刻まれた句を記しておかねばなるまい。

「落葉松わかば山傾けてやわらかし」

である。



由利主宰がしっかりと句碑を守っておられる。
主宰はどんなお気持でこの句碑に向かわれているのだろうか。
知る由もないけれど、せせらぎという揺らぎの中で、あるいはまた飛鴻先生の胎内でやすらいでおられるのだろうか。

けれど、句作の日々を過ごされ、かつぼくのような初学の者にも視線を向けて下さる。
そんな感慨もないのかもしれない、などと勝手に推測している。



乗鞍は天上の気配である。



         荒 野人


追記:今日は少しばかり個人的見解を羅列してしまった。H氏なる未開人の言動に腹が立ったからである。御容赦頂ければ幸いである。