手元に一冊の句集がある。
「紀伊日和」と題されている。
本阿弥書店からリリースされた一冊、である。
作者は「満田三椒」さん。
タイトル通り、紀ノ川市に在住されておられる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/a1/d84b4f1fbae933a1bc54385c5326904e.jpg)
句集の表紙である。
ハードカバーの装丁は、上部にあしらわれた絵によって柔らかさを演出している。
心憎い装丁である。
三椒さんは、俳句結社「秋」の同人であり現代俳句協会会員である。
ぼくのブログに、時折訪ねて来て嬉しいコメントを残して下さる。
「秋」の俳人では、名古屋の佐保子さんが知り合いだけれどもう一人紀州の三椒さんが加わった。
俳句の縁である。
この句集、平成元年から二十六年までの句が纏められている。
「秋」佐怒賀正美主宰の序から始まる。
懇切丁寧に句集を分解されて、三椒さんの句風を解きほぐしてゆく。
それによると、第一の特質は「向日性の明るい笑い」であると喝破する。
さすがは主宰の読み方である。
第二のキーワードは「家族」であると云う。多対一の非対称バランスの家族の中での居住まいであると云う。
第三は「サラリーマン」であると見抜いた。
第四は「紀州」の生活風景であるとされる。
最後のキーワードは「海外詠」だと分解された。
三椒さんのフィールドの広さが理解できる読み方、である。
一々最もであるし、そう読むのが一番早い理解であると思う。
主宰の慧眼恐るべしである。
従って、その慧眼を超える読み方はぼくには出来ない。
ただ、一読しての感想を述べさせて頂ければ「生活に根付いておられ」「極めて正統な紡ぎ方」と云うことであろうか。
且つ又、表現手法に微かな色気を感ずるのである。
句集を通読して、心に残ったページがある。
162ページと163ページの四句である。
この句集のエキスが詰まったページであると読んだ。
その句を、書き出しておく。
「開演まで綿虫が舞う能舞台」
「風花や遺跡は掘りて埋め戻す」
「時雨るるや肌に噛みつく湯に浸る」
「寒椿首切ることを評価され」
の四句である。
もちろん、秀句がこれだけである訳も無い。
好きな句を次に書き出そう。
「秋さくら寺の礎石は墓の石」
「お茶席に使ふ紅葉を拾いけり」
「樟脳の匂ふセーター抱きしめる」
「噴水やはばかることのなきベーゼ」
「夜は夜のボレロ奏でる青田風」
「手拍子の渦に神輿のせり上がる」
「かの世まで透けて高野の天高し」
「ポケットに飴玉のある日向ぼこ」
などが列記される。
とりわけ、三句目にはこころを打たれた。
その句の、前の句が効いている。
「夕暮はひとに会ひたや枯木道」である。
夜、三椒さんは「枯木星」を見ていたに違いない。
そう思えるのである。
この句集の中で、ぼくが一番好きなのは「ポケットに飴玉のある日向ぼこ」である。
ぼくには、この句が句集のメルクマールであると見える。
日向ぼこの、なんという日常。
なんという非日常。
なんという鮮やかさ。
なんという飛躍であろうか。
飴玉に与えた個性が際立っている、ではないか・・・!
とまれ、ぼくには句集をリリースできそうもない。
それほどの作品の蓄積も無いし、秀句も無い。
これからは、こうした先人を見習って研鑽を積もうと思っている。
せめて「代表句」の一つは、なんとかものにしたいのである。
それが、いまの念願である。
荒 野人
因に、この記事の内容は満田さんの了解を得ていない。
失礼があったらお詫びする。
「更衣高野の空の谺かな」
野 人
三椒さんの句には「更衣」に思いの深いものが多い。
この句を捧げる事由である。
なお、下五を「谺かな」とした。
谺と認識した時には、既に聞いているからである。
「谺聴く」ではいけないからである。
「紀伊日和」と題されている。
本阿弥書店からリリースされた一冊、である。
作者は「満田三椒」さん。
タイトル通り、紀ノ川市に在住されておられる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/a1/d84b4f1fbae933a1bc54385c5326904e.jpg)
句集の表紙である。
ハードカバーの装丁は、上部にあしらわれた絵によって柔らかさを演出している。
心憎い装丁である。
三椒さんは、俳句結社「秋」の同人であり現代俳句協会会員である。
ぼくのブログに、時折訪ねて来て嬉しいコメントを残して下さる。
「秋」の俳人では、名古屋の佐保子さんが知り合いだけれどもう一人紀州の三椒さんが加わった。
俳句の縁である。
この句集、平成元年から二十六年までの句が纏められている。
「秋」佐怒賀正美主宰の序から始まる。
懇切丁寧に句集を分解されて、三椒さんの句風を解きほぐしてゆく。
それによると、第一の特質は「向日性の明るい笑い」であると喝破する。
さすがは主宰の読み方である。
第二のキーワードは「家族」であると云う。多対一の非対称バランスの家族の中での居住まいであると云う。
第三は「サラリーマン」であると見抜いた。
第四は「紀州」の生活風景であるとされる。
最後のキーワードは「海外詠」だと分解された。
三椒さんのフィールドの広さが理解できる読み方、である。
一々最もであるし、そう読むのが一番早い理解であると思う。
主宰の慧眼恐るべしである。
従って、その慧眼を超える読み方はぼくには出来ない。
ただ、一読しての感想を述べさせて頂ければ「生活に根付いておられ」「極めて正統な紡ぎ方」と云うことであろうか。
且つ又、表現手法に微かな色気を感ずるのである。
句集を通読して、心に残ったページがある。
162ページと163ページの四句である。
この句集のエキスが詰まったページであると読んだ。
その句を、書き出しておく。
「開演まで綿虫が舞う能舞台」
「風花や遺跡は掘りて埋め戻す」
「時雨るるや肌に噛みつく湯に浸る」
「寒椿首切ることを評価され」
の四句である。
もちろん、秀句がこれだけである訳も無い。
好きな句を次に書き出そう。
「秋さくら寺の礎石は墓の石」
「お茶席に使ふ紅葉を拾いけり」
「樟脳の匂ふセーター抱きしめる」
「噴水やはばかることのなきベーゼ」
「夜は夜のボレロ奏でる青田風」
「手拍子の渦に神輿のせり上がる」
「かの世まで透けて高野の天高し」
「ポケットに飴玉のある日向ぼこ」
などが列記される。
とりわけ、三句目にはこころを打たれた。
その句の、前の句が効いている。
「夕暮はひとに会ひたや枯木道」である。
夜、三椒さんは「枯木星」を見ていたに違いない。
そう思えるのである。
この句集の中で、ぼくが一番好きなのは「ポケットに飴玉のある日向ぼこ」である。
ぼくには、この句が句集のメルクマールであると見える。
日向ぼこの、なんという日常。
なんという非日常。
なんという鮮やかさ。
なんという飛躍であろうか。
飴玉に与えた個性が際立っている、ではないか・・・!
とまれ、ぼくには句集をリリースできそうもない。
それほどの作品の蓄積も無いし、秀句も無い。
これからは、こうした先人を見習って研鑽を積もうと思っている。
せめて「代表句」の一つは、なんとかものにしたいのである。
それが、いまの念願である。
荒 野人
因に、この記事の内容は満田さんの了解を得ていない。
失礼があったらお詫びする。
「更衣高野の空の谺かな」
野 人
三椒さんの句には「更衣」に思いの深いものが多い。
この句を捧げる事由である。
なお、下五を「谺かな」とした。
谺と認識した時には、既に聞いているからである。
「谺聴く」ではいけないからである。