花合歓でも良い。
ぼくは浅学にして、山間(やまあい)でしか見た事の無い合歓の花である。
けれども、この数年は里でも見る事が出来るのである。
今日の花合歓は、光が丘公園にある花である。

緋扇を開いたかのように、空に向いている。
清楚にして、華やかな花である。
もう少しすると、蕾が全部開いてくれる。
けれども、そうなると枯れた花も枝に残って少し見栄えが悪くなる。
その姿はあまり見たくない。
花は開いた時は華やかだけれど、枯れると見栄えが劣ってしまう。
人は、齢を重ねると美しい。
美しく齢を重ねる知恵を持っている。
更に言及すると、俳句悩の人は齢の重ね方が綺麗だ。

従って、俳句を詠む人は年齢を感じさせないのである。
かてて加えて、その眼差しは暖かく柔らかい。
けれども、ぼくはまだその境地には至っていない。
齢を重ねてはいるけれど、未だし(いまだし)・・・である。

「花合歓やせわしき朝に二度寝する」

3年前・・・。
秩父の山間で合歓の花を見た。
「緋扇を重ねて床し合歓の花」
という句を詠んだ。
良い句ではないけれど、この句を凌駕する事が出来ず呻吟している。
俳句は難しい。
何がって・・・自分の中で景や感情を整理しきれないからである。
特別、言葉が少ないからだとか、季語を詠み込まなければならないからだとかといった事ではない。
小さな宇宙を構築しきれない、そのモドカシさである。
特にこれと云って訓練する必要がある訳でもない。
自分の感性の赴くままに、素直に夜目が良いのだと分かっていてもそうはいかない。
気取ってしまう。
恰好つけてしまう。
上手く詠もうと欲が出てしまう。
下手だっていいのだと、割り切れない。
ただ文字を連ねるだけの散文とは、違う詩型だと思うのだ。
「調べ」も大切だ。
誰でもが分かる言葉で詠む必要もある。
ただ、男の子は恰好つけてしまう。
気取ってしまう。
厄介な事である。
あっそうそう・・・花言葉は。
「歓喜」「繊細」「夢想」「安らぎ」である。
あたかも白昼夢を見ているかのように咲くからであろうか?
荒 野人
ぼくは浅学にして、山間(やまあい)でしか見た事の無い合歓の花である。
けれども、この数年は里でも見る事が出来るのである。
今日の花合歓は、光が丘公園にある花である。

緋扇を開いたかのように、空に向いている。
清楚にして、華やかな花である。
もう少しすると、蕾が全部開いてくれる。
けれども、そうなると枯れた花も枝に残って少し見栄えが悪くなる。
その姿はあまり見たくない。
花は開いた時は華やかだけれど、枯れると見栄えが劣ってしまう。
人は、齢を重ねると美しい。
美しく齢を重ねる知恵を持っている。
更に言及すると、俳句悩の人は齢の重ね方が綺麗だ。

従って、俳句を詠む人は年齢を感じさせないのである。
かてて加えて、その眼差しは暖かく柔らかい。
けれども、ぼくはまだその境地には至っていない。
齢を重ねてはいるけれど、未だし(いまだし)・・・である。

「花合歓やせわしき朝に二度寝する」

3年前・・・。
秩父の山間で合歓の花を見た。
「緋扇を重ねて床し合歓の花」
という句を詠んだ。
良い句ではないけれど、この句を凌駕する事が出来ず呻吟している。
俳句は難しい。
何がって・・・自分の中で景や感情を整理しきれないからである。
特別、言葉が少ないからだとか、季語を詠み込まなければならないからだとかといった事ではない。
小さな宇宙を構築しきれない、そのモドカシさである。
特にこれと云って訓練する必要がある訳でもない。
自分の感性の赴くままに、素直に夜目が良いのだと分かっていてもそうはいかない。
気取ってしまう。
恰好つけてしまう。
上手く詠もうと欲が出てしまう。
下手だっていいのだと、割り切れない。
ただ文字を連ねるだけの散文とは、違う詩型だと思うのだ。
「調べ」も大切だ。
誰でもが分かる言葉で詠む必要もある。
ただ、男の子は恰好つけてしまう。
気取ってしまう。
厄介な事である。
あっそうそう・・・花言葉は。
「歓喜」「繊細」「夢想」「安らぎ」である。
あたかも白昼夢を見ているかのように咲くからであろうか?
荒 野人