エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

合歓の花

2015年06月12日 | ポエム
花合歓でも良い。
ぼくは浅学にして、山間(やまあい)でしか見た事の無い合歓の花である。

けれども、この数年は里でも見る事が出来るのである。
今日の花合歓は、光が丘公園にある花である。



緋扇を開いたかのように、空に向いている。
清楚にして、華やかな花である。

もう少しすると、蕾が全部開いてくれる。
けれども、そうなると枯れた花も枝に残って少し見栄えが悪くなる。
その姿はあまり見たくない。

花は開いた時は華やかだけれど、枯れると見栄えが劣ってしまう。

人は、齢を重ねると美しい。
美しく齢を重ねる知恵を持っている。
更に言及すると、俳句悩の人は齢の重ね方が綺麗だ。



従って、俳句を詠む人は年齢を感じさせないのである。
かてて加えて、その眼差しは暖かく柔らかい。

けれども、ぼくはまだその境地には至っていない。
齢を重ねてはいるけれど、未だし(いまだし)・・・である。







「花合歓やせわしき朝に二度寝する」







3年前・・・。
秩父の山間で合歓の花を見た。


「緋扇を重ねて床し合歓の花」


という句を詠んだ。
良い句ではないけれど、この句を凌駕する事が出来ず呻吟している。

俳句は難しい。
何がって・・・自分の中で景や感情を整理しきれないからである。
特別、言葉が少ないからだとか、季語を詠み込まなければならないからだとかといった事ではない。
小さな宇宙を構築しきれない、そのモドカシさである。

特にこれと云って訓練する必要がある訳でもない。
自分の感性の赴くままに、素直に夜目が良いのだと分かっていてもそうはいかない。

気取ってしまう。
恰好つけてしまう。
上手く詠もうと欲が出てしまう。

下手だっていいのだと、割り切れない。
ただ文字を連ねるだけの散文とは、違う詩型だと思うのだ。

「調べ」も大切だ。
誰でもが分かる言葉で詠む必要もある。

ただ、男の子は恰好つけてしまう。
気取ってしまう。
厄介な事である。

あっそうそう・・・花言葉は。
「歓喜」「繊細」「夢想」「安らぎ」である。
あたかも白昼夢を見ているかのように咲くからであろうか?



       荒 野人