エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

夏木立

2015年06月25日 | ポエム
梅雨時だと云うのに、雷音が轟く。
梅雨明けの雷が、通常である。
そもそもが、盛夏の風物である。

だがしかし、夏木立はそんな事にはおかまいなしで存在する。



その無頓着は、誠に清々しい。
日陰を提供し、且つ風を濾過する。
熱せられた風は、夏木立で濾過され清々しい風となる。

風は、クレパス色して流れる。
夏木立の色である。







「背を押す風の色する夏木立」







ぼくは、この木立の中を歩く。
深落葉が冬に朽ち、今はフカフカの褥になっている。

歩いていても、足腰に優しいのである。



こうして、何気ない日常の中に自然の恵みがあるのだ。
ヒトは、自然と共生しつつ成長するのである。

いわんや、オキナワの海を埋め立てるなど「愚の骨頂」である。
あの海には、珊瑚が生まれ、ジュゴンが棲息するのだ。
生き物の生きる場所を奪っておいて、何が安全保障だと云うのだろうか・・・。
不思議でならないのである。




      荒 野人

こんな日は音楽

2015年06月24日 | ポエム
梅雨には、クラシックを聴くにしくはない。
とりわけ、梅雨の晴間には、生で聴くが良いのである。

この日、コンサートに出かけたのである。
現役学生やOBたちが中心のオーケストラであるけれど、良く聴かせてくれる。



東大フォイヤーベルク管弦楽団である。



この日のプログラムである。
何年か前聴いた時を思い出すと、成長著しい。
最初のプログラムを聴いてみよう。



グリンカ 歌劇「ルスランとリュト?ミュラ」序曲




彼らの演奏も、これに負けない。
マエストロの情熱的な、且つ団員と一体となった指揮が優れているのであろう。

一本の棒が編み上げる音の世界は、優れて色彩的な世界である。
音・・・沈黙と言った作曲家もいた。
音の綾なす世界は、一個の宇宙である。
色彩であり、形而上的コスモスである。







「夏の日や交響曲を聴く時間」







このメンバーは、ドヴオルザークのセレナーデを奏でた。
指揮者は棒を振らないけれど、そのテンポは悪くなかった。



たまたま賛助会員として、幾ばくかの会費を納めている。
楽団が、目覚ましく成長するのを目の当たりに出来るのは楽しい。



       荒 野人

沖縄

2015年06月23日 | ポエム
「戦争は終っていない!」その言葉が、重い。
今日、沖縄は慰霊の日を迎えた。
あの日から・・・組織的地上戦が終ったその日から70年。

その節目に、日本の為政者は日本を戦争の出来る国へ変えようとしている。
季節は、翠滴る候である。



この滴る緑を枯らしてはならない、のである。
豊かで、鮮やかで、奥深い日本の自然。

ぼくたちの次の次の世代に、キチンと手渡すこと。
それが、団塊の世代の責務であるのかもしれない。







「オキナワやカタカナで書く暑き日々」







ぼくは、安穏に俳句を詠んでいる。
それで良いのか・・・。
俳句の力は、どこにあるのか・・・。

そのことを模索する日々である。
言葉の力。



575の力。
何を訴えるのか・・・その命題と課題。



季語の力。
だがしかし、その事への拘泥(こうでい)。
形式の揺ぎない美。
けれど、それで良いのか。

瑕疵という美もある。
雑味という美もある。

俳味とは何なのか?
それを自問自答する日々である。


       荒 野人

ユリの花

2015年06月22日 | ポエム
百合と書く。
とりわけ斜面に咲き誇る百合の花は、壮大である。



山道に沿うようなユリの花の乱舞である。



百合の径は、杣道(そまみち)である。
そう書くのが合っている。
それほど凛として、且つ徒(いたずら)に群れていない。







「且つは山百合の戯むる杣の径」







このゆり園は、埼玉県所沢にある。
旧ユネスコ村の跡地である。



入園料は少しばかり高いけれどユリの花は期待に応えてくれる。
しかし、民間経営とは云え駐車場代は法外だ。

行かれるなら、近くの民間駐車場に預けられる事をお勧めする。
駐車場代の差額で、百合根の天麩羅が一皿頂ける。
これは、文句なしに旨い。
差額にほんの100円も足せば、百合根入り焼きそばも頂ける。
これまた、文句なしに旨い。



百合の花は、かなり重たいらしい。
所々に、花がお辞儀をしたり枝が折れてしまっている百合がある。

しかもそれは、孤立した百合である。
適度な距離を保って群舞する百合の花は、お互いに支え合っているようだ。



所沢市の誇りでもあろう。
アクセスも便利だ。

素晴らしい、ゆり園である。


      荒 野人

姫沙羅

2015年06月21日 | ポエム
ヒメシャラである。
沙羅・・・夏椿の花よりも小ぶりであってしかし花はあくまでも近似値を示す。
沙羅・・・ぼくらのような凡人には涅槃の樹下に巨大な虚ろが開いている、と思える。

樹皮自体も、極めて似ている。



けれどもヒメシャラと呼ぶのである。
可憐な花である。







「ヒメシャラの誰知らぬ内咲きにけり」







花言葉は・・・。
「謙譲」である。

美徳である。
沙羅は、釈迦が入滅した場所の咲く花だ。
沙羅双樹の花を言う。

平家物語でも、琵琶の音色に合わせて語られる。
法師が大きなバチで叩くように演奏する。

琵琶法師という呼称は、今はもう死語になっている。
それでも良い。

ぼくたちはヒメシャラからでも、釈迦の生涯を感じ取れるからである。



        荒 野人