自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★6枚の壁新聞

2011年11月29日 | ⇒ランダム書評
 2011年3月11日、東日本大震災が起こり、東北地方を大津波が襲った。「メディアも被災者」という言葉をこれまで何度かメディアの授業で使ってきた。そのたとえで宮城県の地域紙「石巻日日新聞」を取り上げた。そのとき記者たちはどのような行動をとったのか。そのドキュメンタリーが新書本とした出版された。本のタイトルは『6枚の壁新聞』(角川SSC新書)。同社の輪転機の一部が水に浸かり、新聞発行ができなくなった。そのときとっさに思い立ったのが本のタイトルにある「壁新聞」をつくることだった。おそらく、大手紙やブロック紙と呼ばれる新聞社だったら思いもつかなかったことだろう。地元密着、「伝える」執念を描いたドキュメンタリーだ。

 石巻日日新聞。イシノマキヒビシンブンと読む。ニチニチではない。夕刊紙が専門で、宮城県東部の石巻市や東松島市、女川町などをエリアに震災前は1万4000部を発行していた。従業員は6人の記者を含め28人。典型的な地域紙と言ってよいだろう。この日(3月11日)は夕方から雪の予報が出ていて、夕刊は午後2時半ごろ早めに配達が始まっていた。地震の発生は午後2時46分、その3分後に大津波警報が発令、さらにその50分後の3時40分に石巻市内の同社に津波が到達した。社屋の倒壊を免れたものの、1階にある輪転機の一部が水に浸かり、さらに電気が止まった。来年には創刊100周年を迎える歴史ある新聞を発行できないという危機に陥る。社長の近江弘一は決断する。「今、伝えなければ地域の新聞社なんか存在する意味がない」「紙とペンさえあれば」「休刊はしたくない。手書きでいこうや」と。そして、3月12日付=写真=から6回にわたって壁新聞づくりが始まり、避難所などに貼り出された。

 記者も被災した。津波に飲み込まれながら、浮流物につかまり一晩漂流した後にヘリコプターで救出された33歳の記者、津波に後ろから追われながら山の上に逃げて生き延びた記者もいた。生死と向き合う壮絶な経験をしたからこそ、被災者はどのような情報を必要としているのか的確に把握できたのだろう。伝える使命感が手書きの壁新聞へと記者たちを走らせる。ただ、記者にたちとって忸怩(じくじ)たる思いがなかったわけではない。壁新聞は量産できないので、貼り出した場所(避難所など)でしか読まれない。手書きの壁新聞では字数が限られ、取材した情報のほとんどは掲載されない。さらに、電気も輪転機も無事な大手紙が避難所に無料で新聞を配れば、「石巻日日新聞離れ」が生じるのではないか、そのような思いが交錯した。若い記者たちの歯がゆい思いは別として、水に浸からなかった新聞用ロール紙、そしてフェルトペン、そして紙を切るカッターナイフしかなかった。

 電気が来て、パソコン入力でA4版のコピー新聞ができたのは17日の夜だった。そのコピー新聞を手にした記者デスクは「サイズは小さくとも、活字で情報を伝えられることに喜びがあふれた。早くいつもの新聞を作りたい」と記している。

 被災直後、多くの人は携帯電話のワンセグ放送やメールで情報を得た。しかし、充電できずバッテリ-切れとなって初めて、情報から隔絶された孤独感に追い込まれた。そんな状況の中で、壁新聞は「情報のともしび」だったに違いない。3月20日付から水没を逃れた古い輪転機を使い1枚(2頁)刷りの紙面での発行が再開された。ただ現実として、「家がなくなったから新聞を止めてほしい」「日日新聞を楽しみにしていた肉親が亡くなったので」との理由から新聞離れは始まっている。次に来る経営という問題に…。

⇒29日(火)夜・金沢の天気  くもり

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