茶道の稽古で炭点前をしました。
お茶の点前に先立って、風炉や炉に炭をつぎ足す一連の所作を炭点前といい、正式な茶事では挨拶のあとに、この炭点前を行います。濃茶の前に行うのが「初炭」、濃茶が終わって次の薄茶をたてる前に炭をつぎ足すことを「後炭」と言います。
断面が真円で菊の形に見えるクヌギを原木にした炭を使うので、最近はとみに価格が高騰し調達も難しくなっているのですが、有難いことに師匠はたびたび炭点前の稽古をしてくださいます。
お茶が客に行き渡るまで、炭は均一な火力を維持しなければなりません。炭点前では、お茶を振る舞う時間を勘定に入れながら、炭を置く角度や炭同士の間隔などを見極めて、つぎ足してゆきます。この炭点前を客たちが炉の近くまでにじり寄って鑑賞するのです。
16世紀半ば頃まで、炭を直しつぎ足す作業は裏の仕事とされ、客がいったん席を外した後に行われていたものが、千利休の時代からこの作業そのものを、客が鑑賞するようになったのだそうです。燃えて灰になった炭の跡を鑑賞し、これを整えて新たな炭を組んでゆく過程を鑑賞し、そこに美を見出すのは、おそらくわが国独自の文化だと思います。
釜を持ち上げて、炉の中が露わになり、そこに菊の形のまま白く残った灰を指して「尉(じょう)」がなる、などと言われます。能で老翁を「尉」と呼ぶのに倣って、黒い炭が年月を経て、枯れて白髪となった様子に見立てるのです。
時間経過による「劣化」とされるもののなかに、ものがなしい不完全な美を見出すのが、茶の湯の「わび」の、ひとつのかたちなのだと思います。そこには「今」侘しいだけではない、かつて赤々と燃えて部屋を暖め、湯を沸かし、茶の熱となって客の身体を温めた、炭のたどった時間経過が折りたたまれている「わび」でもあります。
利休が茶の心を表すのに用いた藤原家隆の次の歌にも、時の流れが折りたたまれているように思います。
花をのみまつらん人に山里の雪間の草の春を見せばや
雪間の草には、もう芽吹こうとする春が潜んでいる、そこには思弁的なものではない、能動的な美の世界が詠み込まれています。