老健施設でお茶のお稽古をされている先生が、「遠山無限碧層々」の掛軸の説明をして、お年寄りに大層喜ばれているというお話を、かつて披露したことがあります。「遠山」とはこれまで踏み越えてきた道のりの全貌であり、人生を振り返って、恨みも誇りもない、ただ碧々とした山並みに対するように静かに遠望する姿を思い描いてもらうと、お年寄りたちは大変よい表情をしてくれるのだという話です。
わたしもこの話が好きで、みずからの人生を振り返って「遠山」を眺めるように努めてはみるのですが、なかなかうまくいきません。これまでの道のりを丸ごと認めてしまうというよりも、丸ごとバツ印をつけてしまいたい衝動にもかられます。老境の入口で「生き直し」てみたいという思いがどこかにあり、それが煩悩の産物であることは十分承知してはいるのですが、残された人生を勇ましい気持ちで迎えさせてくれるのを、否定できないのです。
人生の節目に詠まれた歌のうち、「生き直し」について考えさせる二首を選んでみました。
一片の忠誠とついの卑屈とを負い生きしなれ春にごる窓(近藤芳美『アカンサス月光』)
大手建設会社に勤務し、建築工法の専門家として自他ともに認める存在であった歌人の、退職の日の歌です。
「一片の忠誠とついの卑屈」を負ってきた日々と切って捨て、「春にごる窓」へと視線を向ける。どこへもぶつけようのない気持の昂りが、痛ましく伝わってきます。無論、ここにとどまっているものか、という強い気持ちがあってこその歌なので、じめじめした後悔の色は感じられません。
人生の無限の可能性を信じて、それゆえにかえって大切な一歩を踏み出せなかったこと。犠牲を払ってでも体当たりで状況を打ち崩すことのできなかった柔弱さ。そういったものどもに対する憤りを、残り短い人生にぶつけたくなるような気持ちは、わたしのなかにもあります。老いを前にした、未来への闘いの狼煙のような歌として、読み返しました。
歳月はさぶしき乳を頒(わか)てども復(ま)た春は来ぬ花をかかげて(岡井隆『歳月の贈物』)
北里研究所附属病院の医師として勤務していた詠み手が、職も家族も捨てて20歳ほど年下の女性と九州で4年の隠遁生活を送ったのちの復帰第一弾の歌です。
大きく道を踏みはずした人の、そののちの心境を詠んだ歌ですので、先程の歌とは正反対のものと言えるかもしれません。しかし、わたしはこの二首に、同じような気概を感じます。人生に対する潔さといったものでしょうか。
「さぶしき乳」には逃亡の記憶も含まれていたに違いなく、そこから分かたれた人は、怒りとも諦めともつかぬ思いで未来を見つめています。結句の「花をかかげて」の厳かさで読む者は救われますが、詠み手の視線はそれまで見慣れた春の花々を愛でるものとは全く違うものに変容しています。
「生き直し」というものが可能ならば、それは全てを捨て去る心の昂りとともに訪れるのではないか、捨て鉢の覚悟の果てに頼りなくあるものではないか。老いの前に立ってそう思います。