ソーシャルワーカーのSさんの話を聞く機会があり、そのご苦労に心の底から感銘を受けました。そして何より、その言葉の豊かさに時を忘れる思いがしました。
認知症の患者さんを含む施設で働くSさんは、患者さんの行動がどうしても理解できない、善意に解釈しようとしても心が折れてしまいそうな時がしばしば訪れるのだそうです。それでも、落ち込む間も無く日々の仕事は否応なしに押し寄せてきます。
Sさんは、先輩から聞いた19世紀の詩人ジョン・キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」(Negative Capability)という言葉を考えるうちに、次第に大きな荷物を降ろしたような気持ちになれたのだそうです。分からないことに出会ったときに、それにじっと耐える力、とでも言えば良いのでしょうか。正確な日本語訳はまだ見当たらない言葉だけれども、医療や介護の世界では注目され始めている言葉なのだということを教えていただきました。
キーツは自身の手紙のなかで、この言葉を簡潔に説明しています。
文学において偉大な仕事を達成する人間を形づくる特質、つまりシェイクスピアがあれほど所有していた特質、それが何であるか、ぼくは「消極的受容力」(Negative Capability)というものについて言っているのだが、人間が不確実とか不可解とか疑惑の中においても、いらいらして事実や原因を究明することなく、留まることができる状態を指すのです。(『キーツとその時代』出口保夫著 中央公論社)
例えばハムレットの受苦や運命は復讐にストレートに繋がるものではなく、母親への複雑な気持ちや蔑まれた恋の想いが、ないまぜになっています。"To be,or not to be,that is the question."が様々に翻訳され、そのどれもが正しくシェークスピアの本意を伝えきれないのも、原文に漂う「分からないことをそのままに受容する」態度のゆえなのかもしれません。
しかし、ここで注目したいのは、分からないことを分からないままに受け入れながら、それでも現状を突破しようとするその力についてです。
千手観音の手がなぜあのように沢山あるのかという禅問答に対して、師は「闇の中、後手で枕を捜す」と答えました。禅僧の南直哉さんはこれについて、次のように述べています。
「闇の中、後手で枕を捜す」とは、つまり当てがない行為を意味しています。それはすなわち、観音様の慈悲とは、あらかじめ超能力(それが千の手と眼です)を備えていて、救うべき人間とその苦悩を熟知した上で、片っ端から救済していく、ということではない、と言っているのです。
実際、救う対象を熟知している人が、それに十分な救う能力を駆使しているだけなら、要するにただの仕事で、慈悲行と言う必要はありません。
それが慈悲行と言えるのは、人それぞれの苦しみを、ああだろうかこうだろうかと、想像力を必死で働かせ、多くの失敗を重ねながら、決してあきらめずに苦悩する他者に関わり続けようとするからなのです。その想像力を千の眼といい、その努力を千の手と言うのです。(『刺さる言葉』南直哉著 筑摩選書)
ソーシャルワーカーのSさんの言葉は、悟りきった人のものではなく、むしろ七転八倒する修行者のもののようでした。分からないことを分からないままに受け入れ、それでも必死で想像力を働かせながら、あきらめずに患者さんに向き合う姿です。
「慈悲」という言葉で納得してしまうことも、Sさん個人に慈悲行を強いることも、酷なことなのでしょう。しかし、Sさんはネガティブ・ケイパビリティという人間の力に気づき、そこに留まることに誇りを感じるのだと言います。
慈悲の源泉は他者への想像力だと思います。その想像力を巡らせるために、ひと呼吸をおいて全てを受け入れてみること。Sさんは日々の仕事の中でそれを体得しているのでしょう。