人生の重大な岐路に立たされたとき、そのような自分を突き放すように戯画化してみせることのできる人がいます。何をそんなに深刻そうな顔をしているんだい、と周りに目配せしながら困難に立ち向かおうとするような人です。精神科医のV.E.フランクルがアウシュヴィッツで生き残るためにユーモアを忘れないこと、そして現実を突き放して見ることを心掛けていたことを想起させます。そして、人間の最も良質な「知性」の輝きを、私たちはそこに見ることができます。
知性とは「自省的な機能」の別名である、とある人は言いました。「自省する」とは複数の視座を往復する「運動」のことを指します。われわれは、はじめから人生という「舞台の上」に置かれており、舞台の外を知ることができない存在に過ぎません。だから舞台の上の役回りに固執したり、これは猿芝居にすぎないと斜に構えたりという「大人気ない」態度をとってしまいがちです。そして、そのいずれでもない態度を「自省」と呼びます。この自らを省みる態度は「複数の視座を往復する運動」においてのみ実現されるのです。
このことをもう少し深く考えてみましょう。
私たちは複数の視座を往復することで、いったんは「舞台の上」を相対化します。そのうえで、視座を移転して舞台の上に戻った役者は舞台の上に没入します。しかしこの役者は没入すべき舞台と、いったんは相対化した舞台に対して、どのように折り合いを付けるのでしょうか。そもそも視座の運動はどのようにして可能なのでしょう。
心理学者の河合隼雄さんは、理想の伴侶を追い求めて結婚に至った男性が、次第に相手に幻滅し破局に至る過程について「絵に描いた餅」という表現を使って説明します。その男性は三年間の交際期間で「優しい賢い女性」という、内なる「絵に描いた餅」を現実の女性 (現実の「餅」) に投影して見ていたに過ぎませんでした。彼は自分の理想と現実との乖離であったと、みずからの不運を嘆き、相手の女性を恨むことになります。しかし河合さんは、そこに立ち止まらずにもう一歩踏み込むことの大切さを次のように語ります。
しかしここでもう一歩踏み込めないだろうか。三年間も彼女に騙されていたなどと考えるのではなく、自分の心の中で活動し続けた「優しい賢い女性」という絵姿は、自分にとって何を意味するのだろうか、と考えてみる必要があるのではなかろうか。彼女は偽物だったかもしれないし、何だったか不明にしても、自分の心のなかにひとつの絵姿が存在し、優しさとか賢さとかの属性をもって活動していたことは「事実」なのである。そしてその絵姿こそが自分を色々な行為に駆り立てた原動力なのである。(『こころの処方箋』河合隼雄著 新潮文庫)
「優しい賢い女性」という「絵に描いた餅」は決して普遍的な理想ではないかもしれないけれども、自分を突き動かしていた何ものかであることは間違いのない事実です。翻って、自分を突き動かす何ものかは、このようなかたち以外のかたちをもって私たちの前に現れうるのでしょうか。
河合さんの言う「もう一歩踏み込んで考える」とは、自分の置かれた舞台がどのようなものであるかを自省することです。そして自省を促す契機となるものは「絵に描いた餅」と現実の餅との齟齬を痛切に感じることだと思います。
私たちは自分の理想を「絵に描いた餅」でしかないと覚めた眼で見ることができます。そして同時に「絵に描いた餅」が自分にとってどれほど切実なものであるかを感じることもできます。自分の心のなかの絵姿がどれほど自分を突き動かすのかという自覚は、それが絵に描かれたものに過ぎないという認識とは矛盾することはありません。
みずからが限界のなかで生きることしかできないことを自覚した者は、決して諦観ではなくその限界の中で「精一杯生きよう」と考えるようになります。何をそんなに深刻ぶっているんだい、と自分を突き放して見ることもまた、長い修行の果てに可能になるのだと思います。