犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

死にとうない

2014-05-18 10:57:10 | 日記
仙厓和尚入滅の際、その枕頭には檀家総代の黒田藩家老 久野外記の姿がありました。
彼もまた「死にとうない」の最期の言葉を耳にしたことでしょう。
外記がどのような気持ちでその最期を看取ったのか記録にはありませんが、大きく心に響くものがあったと思われます。外記と仙厓とは複雑な因縁があり、にもかかわらず外記は和尚を心から頼みにしていました。
 
仙厓和尚には庶民に対しては限りない慈愛を向けながら、権力に対しては毅然として対峙し節を曲げない峻厳さがありました。
その姿勢を物語るできごとが、黒田藩主主催の「菊見の宴」での藩主説教事件です。
御三卿一橋家から迎えた若い藩主斉隆は、折からの凶作による領民の困窮を省みず、驕奢遊情にふけり菊作りに興じるありさまでした。仙厓は宴の前夜、激しい雨のなか箕を着て笠をかぶり菊花園に忍び込み、藩主が大切にしていた菊花を鎌で残らず刈り取ります。翌朝、菊見の宴で激怒する藩主斉隆の前に進み出た仙厓は、自分が菊花を刈り取ったことを伝え、三十万領民と菊花のどちらが大事かと説教をします。お手打ち覚悟の大説教でした。
この事件を受けて、菊見の宴は翌年から沙汰やみとなりました。
菊見の宴の責任者である菊見奉行は、ひと月ほど謹慎蟄居の処分を受けますが、これが後の黒田家家老 久野外記の父親でした。
 
のちに家老に昇進した久野外記は、藩政の立て直しに苦渋することになります。前藩主斉清が三十九歳で隠居を強いられ、薩摩の島津家から新藩主長溥を迎えたことで藩内に揉め事が起こり、加えて領内に飢饉が続いたため財政が逼迫していたのです。
そんなある年の元旦、外記が初夢に鷹を見ます。この瑞兆を形にして新年の希望にしたいとして、外記は鷹の絵とめでたい画賛を仙厓和尚に所望しました。
仙厓はこれに応えて、さらさらと鷹の絵を描き、次のような画賛を入れます。
 
夢は五臓の疲労  たかの知れた夢  外記はバカバカとなく
 
これではとても家老には見せられないと狼狽する用人に、仙厓は笑って応じるだけです。
恐る恐る手渡す用人から和尚の絵を受け取った久野外記は、画讃を見て大きくうなずいたと伝えられます。
 
仙厓は家老の激務と苦境を誰よりも気遣い、肩の力を抜いて、気負っている自分を笑い飛ばしてみなさいと言葉を掛けたのでした。
人の心に寄り添って生きるとは、まさにこのことではないでしょうか。
 
仙厓和尚の臨終の席には、家老、藩士、雲水、学僧、歌人、俳人、町人、百姓の区別なく集っており、湿っぽさのない、むしろ陽気な雰囲気であったと言います。
「死にとうない」の仙厓の最期の一言は、このような人たちに向けて、振り絞るように吐き出されたのでした。
陽気に自分の死を迎えてくれる、これらの人々に寄り添うような言葉だったと言えます。
コメント (2)
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藹然接人

2014-05-06 17:01:25 | 日記
越後の良寛和尚には山田杜皐(とこう)という与板に住む俳人の親友がいました。良寛は与板へ行けば、造り酒屋でもあった杜皐の家に泊まり、大好きな酒を心ゆくまで飲み語り合ったといいます。
良寛が最晩年の折、三条市を中心に大地震が起こります。良寛の住んでいる地域は被害が少なかったのに対し、与板の被害が深刻であったことを聞いた良寛は、杜皐へ見舞の手紙を送っています。
 
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ
 
このように、見舞の手紙の中に書かれていました。
後年、良寛の「失言」とも解釈されるこの文言は、良寛と杜皐のお互いの生き方への共感を抜きにして正しく解釈することができません。
良寛は「頑張ってください」とは決して言わず、「災難にあったら慌てず騒がず災難を受け入れることです。死ぬ時が来たら静かに死を受け入れることです。これが災難にあわない秘訣です」と声をかけます。
被災を自分の身に置き換え、自分だったらどう考え、どう覚悟を決めるだろうか、そうやって考え抜いて紡ぎ出した言葉を、被災した友人に届けたのでした。
この言葉を受けた杜皐は、次への一歩を泰然と踏み出す勇気を得たのではないでしょうか。
 
中村天風の弟子でシステム工学研究者の合田周平さんが『中村天風と六然訓』(PHP新書)のなかで触れていた逸話です。
合田さんは続けて次のような話も紹介しています。
 
良寛と同時代に博多の臨済宗聖福寺の住職を務め、多くの禅画を残し町人からも仙厓さんとして親しまれた仙厓和尚が臨終の間際に、弟子たちから「何か最後のお言葉を」と求められた。そのときに残した言葉を、中村天風から聞いた。笑いたくなるくらいの名言なのである。 
和尚は、言い続ける。「死にとうない、死にとうない」。有り難い言葉を期待していた弟子たちが再度、今のお気持ちをと問うと、「ほんまに、ほんまに」と答えて息を引き取ったという。(前掲書)
 
合田さんは「悟るとは、どんな事態に直面しても平然と生きるということであり、平然として死と対峙することではないのである」と解説します。災難や死を生と対立したものと捉えるのではなく、両者を容認し融合するような姿勢が大切なのだと。
しかしこうも考えます。師匠の死に直面して狼狽する弟子たちを、これほどに和ませ団結させる言葉があっただろうか。また、直ちに自らのうちに沈潜させて、おのおのの覚悟を強いる力に満ちた言葉があっただろうか、と。ひとしきり悲嘆にくれた後、それがやがて泣き笑いに転じ、そして静かな自省へと帰ってゆく弟子たちの姿が目に見えるようです。
 
合田さんがこれらの逸話を使って語りたかった教えとは、中村天風の六然訓のうち「藹然接人(藹然として人に接す)」です。陽明学『聴松堂語鏡』の六然訓「処人藹然」を出典としています。
人に寄り添う心をもって人に接しなさい、という教えです。
日常使われる「和気藹々(わきあいあい)」という言葉や、草木がこんもりと茂った様を「藹藹(あいあい)」ということなどから、「藹然(あいぜん)」のイメージもつかみやすいのではないでしょうか。
心の通じ合った友人として、弟子たちに慕われる師として、相手が次の一歩を自然に踏み出せるような言葉をかけることは、想像するほど容易なことではありません。そして良寛や仙厓が前に述べたような言葉を発し、それが友人や弟子たちの心に響いたのは、常日頃「藹然」とした関係を築き得ていたからだと言えます。
いざという時に、そのような言葉を発することができるよう身を処しなさいという教えが「藹然接人」です。
コメント (1)
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