仙厓和尚入滅の際、その枕頭には檀家総代の黒田藩家老 久野外記の姿がありました。
彼もまた「死にとうない」の最期の言葉を耳にしたことでしょう。
外記がどのような気持ちでその最期を看取ったのか記録にはありませんが、大きく心に響くものがあったと思われます。外記と仙厓とは複雑な因縁があり、にもかかわらず外記は和尚を心から頼みにしていました。
仙厓和尚には庶民に対しては限りない慈愛を向けながら、権力に対しては毅然として対峙し節を曲げない峻厳さがありました。
その姿勢を物語るできごとが、黒田藩主主催の「菊見の宴」での藩主説教事件です。
御三卿一橋家から迎えた若い藩主斉隆は、折からの凶作による領民の困窮を省みず、驕奢遊情にふけり菊作りに興じるありさまでした。仙厓は宴の前夜、激しい雨のなか箕を着て笠をかぶり菊花園に忍び込み、藩主が大切にしていた菊花を鎌で残らず刈り取ります。翌朝、菊見の宴で激怒する藩主斉隆の前に進み出た仙厓は、自分が菊花を刈り取ったことを伝え、三十万領民と菊花のどちらが大事かと説教をします。お手打ち覚悟の大説教でした。
この事件を受けて、菊見の宴は翌年から沙汰やみとなりました。
菊見の宴の責任者である菊見奉行は、ひと月ほど謹慎蟄居の処分を受けますが、これが後の黒田家家老 久野外記の父親でした。
のちに家老に昇進した久野外記は、藩政の立て直しに苦渋することになります。前藩主斉清が三十九歳で隠居を強いられ、薩摩の島津家から新藩主長溥を迎えたことで藩内に揉め事が起こり、加えて領内に飢饉が続いたため財政が逼迫していたのです。
そんなある年の元旦、外記が初夢に鷹を見ます。この瑞兆を形にして新年の希望にしたいとして、外記は鷹の絵とめでたい画賛を仙厓和尚に所望しました。
仙厓はこれに応えて、さらさらと鷹の絵を描き、次のような画賛を入れます。
夢は五臓の疲労 たかの知れた夢 外記はバカバカとなく
これではとても家老には見せられないと狼狽する用人に、仙厓は笑って応じるだけです。
恐る恐る手渡す用人から和尚の絵を受け取った久野外記は、画讃を見て大きくうなずいたと伝えられます。
仙厓は家老の激務と苦境を誰よりも気遣い、肩の力を抜いて、気負っている自分を笑い飛ばしてみなさいと言葉を掛けたのでした。
人の心に寄り添って生きるとは、まさにこのことではないでしょうか。
仙厓和尚の臨終の席には、家老、藩士、雲水、学僧、歌人、俳人、町人、百姓の区別なく集っており、湿っぽさのない、むしろ陽気な雰囲気であったと言います。
「死にとうない」の仙厓の最期の一言は、このような人たちに向けて、振り絞るように吐き出されたのでした。
陽気に自分の死を迎えてくれる、これらの人々に寄り添うような言葉だったと言えます。