「顔」は突然に私の前に現れて、どのような理屈もその顔の出現に先回りすることはできない、なぜなら、その顔に不意に呼び止められるときから、倫理的な感覚は発動し始めるからだ、そのように前回述べました。
その「顔」とは、何故、何を我々に強いるのでしょうか。このように問うこと自体、再び「効用」の引力に引き摺り込まれることになるのかもしれませんが、臆せず考えてみたいと思います。
人間の赤ちゃんは異様にニコニコしています。赤ちゃんは愛玩物として扱われることを要求しているのではなく、世話されることを要求しているのです。言い換えれば、赤ちゃんの「顔」は、親子とか家族という新しい関係を生きることを強いるのです。
私たちは、身の回りの事物を理解しようとするとき、自分の知的な枠組みを変えることなく理解しようとします。「認識しよう」とします。ところが、顔は認識することではなく関係することを要請してきます。だから、それは我々の考える枠組みを改編し、新しい生き方を迫ることになります。
以上のことは、僧侶の門脇健さんが語っていたことの受け売りですが、生まれて仰向けに寝かされ、覗き込んでくる多くの顔と対面する赤ちゃんは、人間の生の世界にどこからかやってきて、この世に生きる他者たちを信頼しきって、微笑を交わしながら関係を作ってゆく、それがすべてのスタート地点なのだと思います。
そのような「信頼しあえる関係のサークル」に入っていくこと、つまりは生物として生存の条件を整えることが目的なのではないか、という意地の悪い声も聞こえてくるように思います。やはり、生命の存続のための「効用」を追求するための狡知がここで働いているのではないか、と。
スタート地点が、紛れもなくスタート地点であるのは、「常にそこに立ち戻ってくるからだ」ということを抜きに理解することはできないでしょう。
やや難しい論点ですが、順を追って考えて行きます。
前に述べた、居心地の良い信頼しあえる関係のサークルは、その枠組みの中で考えることを強いる、ある種「狭量な」共同体でもあります。枠組みの論理に従うからこそ、そこから排除されずに安らかな信頼関係が築いていけるのです。しかし、そうではなく、いかなる枠組みからも自由に物事を判断したいという湧き上がるような熱望も、人間は抱きます。
ところが、後者の立場は、往々にしてシニカルな相対主義者の相貌を帯びることになります。
いかなる枠組みからも自由でいたい、けれども、信頼しあえる関係の中でその関係を豊かに醸成して行きたい、そう考えた時、ひとが唯一とり得る誠実な態度は、「約束事であれ、幻想であれ、それを自らの規矩として引き受ける、誰かがいなければならないはずだ」という覚悟を決めることなのだと思います。
人生はあらかじめ書き割りの用意された芝居に過ぎないのかもしれない、けれども、自分はその書き割りのなかでよりよく生きたい、そう決意する瞬間は自由であるはずです。そして、最も大事なことは、同じ書き割りの中で、そして突然現れた新しい書き割りの中で、その決意を反復することに他なりません。だからこそ、それはスタートであり得るのです。決していかなる「効用」も先回りできないような。
冒頭の赤ちゃんの例を語ってくれた門脇健さんは、スタートについての素晴らしい話を、もうひとつ用意してくれています。
未知の世界へ飛翔しようとするとき、私たちの心の中には期待とともに不安があります。そんな不安の中にたたずむ私たちに時おり訪れるのが「空飛ぶ夢」です。
我々は人生の新たな段階にさしかかると、そこで要求される新しい言語の水準を獲得できるかどうかをとても不安に思うのであるが、この(空飛ぶ)夢を見ることによって、かつて赤ん坊から人間になったときにあれほどうまくできたではないか、話せるようになったではないか、ということを自分に言い聞かせているのである。(中略)
今では大貫禄のユーミンですが、デビュー当時の十九歳の少女は、ライブではうまく歌えなくてブルブル震えていたり、泣き出したりしていたそうです。プロのシンガー&ソング・ライターとして生きてゆくという不安の中で、押しつぶされそうになっていたのでしょう。そんな自分を励ますのが、「ひこうき雲」という「空を駆けてゆく」飛翔と「死」をうたった曲だったのではないでしょうか。(『死ぬのは僕らだ』門脇健著 角川書店)
友人の死を悼むレクイエムでもあるこの曲が、友人との安らかな関係に別れを告げ、新たな関係を築いていく、そのなかで、精一杯「良く生きよう」そんな覚悟を決めたスタートの曲だったというのです。