「あなたの言うことは理解できるけれども納得できない」、あるいは逆に「納得できるけれどもいまだに理解できない」などというように、「理解」と「納得」は区別して使われます。
長年、調停委員を務めた方の話によると、離婚調停の場において、お互いが相手をなじり合い、自分の言い分を主張し合っているときには、理解も納得も生まれません。しかし、もうこれ以上話すことはない、歩み寄ることもないというところまで行き着くことで、ようやく両者の対話が始まるのだそうです。
「相変わらず、わたしにはあなたの言い分は理解できないし、受け入れられないけれど、ここまで嫌な話を逃げないで付き合ったと、お互いにそういう意味では納得する」(鷲田清一著 『語りきれないこと』 50頁)、この段階にいたってはじめて、自分がもし相手の立場だったらという想像力が働き出すのだと言います。
理解できないけれども「納得する」という位相へ踏み出す瞬間です。
納得がいかないと話が話として閉じられません。腑に落ちるように話を飲み込むことができないのです。
しかし、納得しようにも納得できない、そういう事態をわたしたちは、身近に見聞きしたばかりです。
ほんの1,2メートルの距離しか離れていなかったのに、大切な家族が津波にさらわれてしまった。つないでいた手を離さざるを得なかった。
東日本大震災の被災者には、このような耐え難い辛い思いをされた方が大勢います。
自らを支えてゆくための軸である「大切な人」「職場」「ふるさと」を無くした人は、新たに自らを支えるための物語を紡ぎ直さなければなりません。これを鷲田さんは「語りなおし」という言葉で表現します。
ところが、どうしても受け入れることのできない辛い出来事は、新しく紡ぎ出した物語そのものによって掬い取ることはできません。これだけ辛い思いをして新しい物語を築き上げたのだから、納得がいったという展開にはならないのです。そこで介護士のような、語りなおしを「聴く人」が必要とされるのだと言います。
辛抱づよく傍らにいて話を聞いてあげ、途中で力尽きて語りきれなかったときに初めて手を差し伸べてくれるような人。そのような人がそばにいて心を砕いてくれることに気づくとき、語りなおしの物語はようやく「閉じる」ことができます。
理不尽な出来事はとうてい理解できないけれども、納得することのできる瞬間がここに訪れます。
「聴くことの力」を臨床哲学というかたちで探求する鷲田さんは、「語ることの力」に再び焦点を当てながら、東日本・東北にほのかな希望を感じると言います。三陸海岸の地域は物語の伝統が非常にディープな地域だからです。
柳田國男が発掘収集した遠野物語や、宮沢賢治の童話と詩、石川啄木や斎藤茂吉の歌の数々まで、脈々と息づく語りの伝統が、被災した人たちのさまざまな語りなおしの中で生きてきたら有難い、そう鷲田さんは述べます。