昨日は、炉の点前の最後の稽古でした。桜の咲き誇るなか利休忌茶会が催されたのが、ついこの間のことなので、時の流れの速さを改めて感じます。稽古で茶杓の銘を訊かれて、適切な季節の言葉が浮かんでこずに、口ごもってしまいました。
炉に掛けられた茶釜から、渦を巻いて湯気の立ち昇るダイナミックな姿も、風炉の季節に入るとしばらく見納めです。
さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり
(馬場あき子『桜花伝承』)
あと何年桜を賞でることができるだろうかなどと感慨にひたる間もなく、葉桜の若葉は爽やかな息吹をもたらします。
歌人の永田和宏さんの著書『現代秀歌』(岩波新書)の喩えを使えば、季節のめぐる円環時間には、行って帰らぬ直線的な時間の流れが交差しており、われわれ人間は直線と円とが織りなす螺旋時間を生きているのです。来年の桜は螺旋のひと回り分ずれた花の季節であり、桜木の若葉の息吹も年が変わるごとに、ひとまわり新たな景色として現れます。
そうやって、時間の流れを感じる体の奥底に「水流の音ひびく」のは、命の立ち昇る音とも言えます。
そうすると、ひとつ前のピッチ分の音も、そのひとまわり前の水音も、大きな円環の音の延長上にあって、命のエネルギーを受け継いでいることになります。我が身を振り返っても、若い頃の切実な悩みやこだわりは、歳をとってもすっかり解消したと思ったことはなく、その年代ごとのとりあえずの答えを得ることで、ようやく生きてきたようにも思います。
染織家の志村ふくみさんが、自身の作家としての成長を次のように書いているのを読んで、大いに力づけられたことがありました。
「もうそれ以上の着物は織れないかもしれない」と、はじめて着物らしい着物を織った時、母に言われた。ひとは一ばんはじめの作品ですべてわかる、とも言われた。
その時はさして気にもとめなかった。しかし、今、四十年近く経ってみてやはりそのことを思う。もう少し曲折のある複雑な意味で。それ以上とか、以下とかいう問題ではなく、もし人に、一生の間にする仕事の範疇とか、内容とか、分量とか、そのすべてを含んで、やるべき仕事というものがあるとすれば、その出発点において帰結点がどこかにさだめられているのではないだろうか。勿論本人は全く無意識でしていることではあるが、一つの円の上を螺旋形のように廻りながら、どんなに思いがけない発見や、飛躍があるとしても、また反対にどんな挫折や、障害があるとしても、そういうものをすべて包含しつつ、仕事をしてゆくべく出発したのだという気がする。
(『ちよう、はたり』ちくま文庫)
子どもを抱えてひとり生きていかなければならなくなったとき、柳宗悦の民芸運動から破門同様の扱いを受けたとき、ご自身が「山野に放り出されて、一匹狼になった気がした」と表現される、そのどん底を味わってなお感じるのが、この境地です。
「一つの円の上を螺旋形のように廻る」姿は、竜巻のように力強いエネルギーを孕んでいるように思います。