宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、死後発見された手帳に収められていました。後に「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれるようになるこの黒表紙の手帳の中には、土偶坊(ワレワレカウイウモノニナリタイ)という10幕からなる戯曲の構想が残されています。
「雨ニモマケズ」を戯曲化しようとしていたのではないかと言われるこのメモには、人々に笑われ石を投げられる「土偶坊(でくのぼう)」の様子が記されています。
さらに手帳の数十ページ後には、「不軽菩薩」の詩が記されており、まさに「土偶坊」の戯曲に響き合うような光を放っています。不軽菩薩こそ、人に嘲られ石を投げられて迫害を受けながらも人々を礼拝し続けた菩薩でした。この菩薩は法華経に登場し、法華経を厚く信仰する賢治にとって特別な存在だったのでしょう。
釈尊の前世に登場するこの菩薩は、会う人ごとに礼拝し讃嘆するので、人々は気味悪がり、やがて厄介者扱いされるようになります。
「私は深くあなたたちを敬って、軽んじたりしません。なぜならば、あなたちはみんな菩薩の修行を行って、ついにはみほとけとなられるからです。」菩薩はこう人々に語りかけます。しかし、これを聞いた人々は、「この無智の坊主め、どこから来て、我は汝を軽しめずと言い、まさに仏になるなどと言うのだ。」と罵り、杖でたたき、石を投げて追い払うのでした。それでも常不軽菩薩は避けて走り、遠くからなお「我あえてなんじらを軽しめず、なんじら皆まさに作仏すべし」と唱えたと言います。
禅僧の南直哉さんは、不軽菩薩の行為と彼の受けた迫害について次のように述べています。
菩薩が迫害されるのは、考えてみれば当然です。礼拝された一般の人々は、普通「他者」の欲望に応えるが故に「自己」は肯定されるのだ、と考えています。つまり「取り引き」の世界の住人です。
そこにいきなり、「あなたは仏になるだろう」などと「身に覚えのない」ことを言われて一方的に礼拝されたら、それこそ思い込みの押し付けのようにしか見えないでしょうし、「オレを馬鹿にしているのか」という怒りの反応にしかならないでしょう。
この常人には理解しがたい、すなわち常人にはできない菩薩の行為は、「取り引き」の外側から、「自己」に無条件の肯定を与えているのです。
何ものも欲望しないまま相手を肯定する行為こそは、その相手が自己を肯定する究極的根拠を作り出すものなのです。その重要性の自覚は、通常きわめてむずかしく、いわば「亡くなってから知る親の恩」的事態でしょう。おそらく、「倫理」を発動する決定的条件の一つは、この行為です。(『刺さる言葉』 南直哉著 筑摩書房 178頁)
不軽菩薩の特異性を確認するために、別の菩薩について語られていることと比較してみるのが良いかもしれません。
初期大乗仏教の傑作と言われる「維摩経」の「入不二法門品」には、維摩と32人の菩薩が登場し「不二の法門に入る(悟りの境地に入る)」とはどういうことかについて議論を重ねます。
「不二」の境地に達することを目指して議論を続けるうちに、菩薩たちの不二の境地を鳥瞰的に見渡そうとする「自分」が次々に解体されてゆきます。「維摩の一黙、雷のごとし」という維摩経のクライマックスとして知られる場面では、言葉を発することそのものを否定してしまいます。
「不二」が目指すことの逆のこと、すなわち「二であること」は、つまるところ「私にとって」物事がどう現れるのか、私にとって有利か不利か、損か得かというものの見方を指します。「私」への執着が他者を道具としてしか利用しようとしない立場を生み出してしまいます。この「二であること」から脱し、他者を利用しないで自分の座標軸を見出すためには、他者による承認を出発点にするしかありません。
維摩経から得られる「倫理」の視点とは、おおむね以上のようなものにとどまるのではないかと思います。
解体に解体を重ねて最後にたどり着く地点とは、しかしながら倫理の「後づけ理論」にとどまります。この「入不二法門品」の枠組みから外に出ることなく、他者の承認が得られる「から」倫理的に行動できるのだとすると、それは南直哉さんの言うように「取り引き」の理屈になり下がってしまいます。
「取り引き」の世界の外側から、不意打ちのように与えられる無条件の肯定は、何かの解体の末にではなく、圧倒的な事実のなかにしか現れません。
宮沢賢治の小説「虔十公園林」の主人公 虔十(けんじゅう)もいつもニコニコ笑っていて人々から軽蔑されています。彼は一人黙々と杉の木を植え続け、やがて小さな杉林は子供達の遊び場になってゆきました。賢治は大きな救済を口にすることはありません。虔十の「杉の木を植え続ける」という具体的な行為のみを救いとして私たちの前に描いてくれます。