犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

維摩と32人の菩薩

2012-10-07 22:35:24 | 日記
初期大乗仏教の傑作と言われる「維摩経(ゆいまきょう)」の「入不二法門品」は、インドの長者 維摩のもとに文殊菩薩と31人の菩薩(修行者)が訪ね「不二の法門に入る(悟りの境地に入る)」とはどういうことかについて、菩薩たちが順番に意見を開陳してゆく説話です。
 
最初の菩薩たちは「生と滅」や「幸と不幸」のような二項対立の状態(二であること)から自由になっていることが「悟り」の境地に入ることである、という議論を展開します。つまり、みずから立てた対立軸にとらわれないことが悟りの境地だというのです。24番目までの菩薩の意見は、ほぼ同様のバリエーションにとどまります。
25番目の菩薩によると、そういった二項対立の外側に立った「そのどちらでもないこと」まで含めて所詮は「二」であるとされます。そこまで含めても「二」に回収されないものとは、いっさいをしないこと、すなわち「無作為」であると言います。ここでは二項対立は重層化されたうえ否定されます。
最後に32番目の文殊菩薩が登場して、他の菩薩たちに向かってこう言います。「あなたがたの説いたところは、それもすべて 二 なのである。なんらのことばも説かず、無語、無言、無説、無表示であり、説かないということも言わない、これが不二に入ることです」と。
32人の菩薩たちが自説を展開した後に、文殊菩薩は維摩へ「不二の法門」について考えるところを問いかけます。
ところが、維摩はいつまでたっても文殊菩薩の求めには応じません。
この沈黙の持つ衝撃は「維摩の一黙、雷のごとし」と言われ、維摩経のクライマックスとして知られるところです。
維摩の沈黙ののち文殊菩薩が再び登場し次のように維摩を褒め称えます。「これこそ菩薩が不二にはいることであって、そこには文字もなく、ことばもなく、心がはたらくこともない」と。
 
維摩経の要諦は、前言を受けてこれを発展させることにあります。結論からさかのぼれば、菩薩たちの議論も、維摩の沈黙にたどり着くための「お膳立て」に過ぎないかのような印象を受けます。しかし維摩の沈黙にしたところで、それが意味を持つのは沈黙に先立つ議論のエスカレーションがあればこその話です。
つまり、この議論を通じて一貫して鳥瞰的な観点からの観察者がいない、というところがポイントです。むしろ、鳥瞰的な立場に安住しうる観察者である「自分」を解体する作業こそが、維摩経の目指すところなのだと思います。
最後に文殊菩薩が登場し、維摩を褒め称えるくだりなどは、ある種の認識の高みに立ちえたと安心した観察者に冷水を浴びせるような、白々しさが漂います。あたかも「そんなことが一体どうしたというのだ」とでもいうように。
 
まさに、それが一体どうしたというのでしょう。
維摩経を通して、われわれが経験しうることは「視点の移動」です。二でないこと、「二でないこと」でもないこと、「『二でないこと』でもないこと」でもないこと・・・と、無限に視点を移動することで、安定した視点であるはずの「私」の場所が消えてゆきます。
私の場所が消えてゆくことによって、私は他者によって認定される限りにおいて私であることが改めて認識されます。その認識は同時に、他者に対する想像力を喚起します。そして、他者に対する想像力が「慈悲」として結実します。
 
逆のことを考えてみましょう。他者によって認定されない「私」は、私であるために他者を道具として利用しようとします。私への執着が「私にとって」物事がどう現れるのか、私にとって有利か不利か、損か得かというものの見方を強いるのです。これが「二であること」の具体的な姿です。
維摩経は「二であること」の単純な反転が、たとえば損得を抜きにして施しをあたえるといったことが、「慈悲」につながるのではないことを、教えてくれているように思います。

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