犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

白雲自去来

2019-06-30 20:38:11 | 日記

お茶の稽古では「白雲自去来」の軸がかけられていました。梅雨明けの澄んだ空気のなかに浮かび上がる、雄大な光景です。

『五灯会元』に収められた問答では、僧が老師に向かって「老病生死」の苦悩から離れるためにはどうしたらよいのかと問います。これに対して老師はこう答えました。

青山元不動 (青山元と動かず)
白雲自去来 (白雲自ずから去来す)

老師は言います。青山は泰然として動かず、山腹には白雲が湧き上がっては消え、その去来によってかえって趣を増すかのように堂々としている。本当の人物とは、逆境もまたよしと達観して、いささかも志操を変えることがなく、逆境や困難によってかえって真価を発揮するのだ、と。

逆境にあって落胆しそうなとき、どのように自らを律すべきなのか、中村天風が『心の成功の炎を』(日本経理合理化協会出版局)のなかで次のように語っています。天風の語り口を再現するために、少し長くなりますがそのまま引用させていただきます。

何かの出来事なり事情で、万一意気が阻喪したとか、あるいはまた、ばかに元気がなくなっちゃったというようなことを感じたとき、たとえば自分が将来やりたいことを人に相談したら蹴られたり、また自分の思ったことが思うようにできなかったときなんかには、普通の人だったら誰でも、失望や落胆はあるね。そういうときに、今までと違った思い方をすることが秘訣の第一だな。
その秘訣は何だというと、一番先にその出来事なり事情を解決する手段や方法を考えないことなんだよ、どうだい?
あなた方はたいてい、何とかして自分の現在の失望、落胆したことを取り戻そうと、その出来事なり事情を解決するほうへ手段をめぐらすことが先決問題だと思うだろう。それが間違いなんだよ。
一番必要なことは、もしもこの出来事に対して意気を消沈し、意気地をなくしてしまえば、自分の人生は、ちょうど流れの中に漂う藁くずのような人生となって、人間の生命の内部光明が消えてしまうということをしんから思わなきゃいけないんだ。
失望や落胆をしている気持ちのほうを顧みようとはしないで、失望、落胆をさせられた出来事や事情を解決しようとするほうを先にするから、いつまでも物になりゃしない。
つまり順序の誤りがあるからだめなんだ。いいかい、ここのところをしっかり心得ておくんだよ。(前掲書 390頁)

どこかで天風が語っていたはずだと思い立ち、書棚をひっくり返して、この言葉を探し当てました。
難事に臨んで泰然自若としている人をみては畏敬の念を抱き、そのようにありたいと思います。また意気阻喪したときには、悪いことばかりではなく光明を求めようとします。しかし、これらはしょせん「小人」の気付きに過ぎないのではと改めて考えます。
本当の修羅場をくぐり抜けた「大人」は、少しでも気弱になった自分を、まず最初に叩き直そうと心掛けているのです。そして、このような強い言葉を紡ぎ出すまでに、どれほどの困難に立ち向かったのだろうと、気の遠くなる思いもしました。

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1 コメント

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掛け軸 (さっと)
2019-11-12 22:40:07
青山元不動という言葉が、白雲自ら去来す・・の前にある事を初めて知りました。
たいていのお茶席や待合にあるのは、白雲・・・のほうの掛け軸だったモノですから。
親たちが次々と倒れたので、介護のためにお稽古から遠ざかり、何十年もたってしまいました。
身につけたものは、なくならないものでしょうか。
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