犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

小さな渦巻

2024-09-25 23:03:18 | 日記

京都旅行で本当においしい抹茶を味わったことを前回書きました。
あれから、あのお茶のような、おいしいお茶を点てたいと思いながら、稽古をしています。

茨木のり子の詩「小さな渦巻」のなかの一節に、こうあります。

ひとりの人間の真摯な仕事は
おもいもかけない遠いところで
小さな小さな渦巻をつくる

それは風に運ばれる種子よりも自由に
すきな進路をとり
すきなところに花を咲かせる

京都で出会った一碗のお茶が、小さな渦巻となって、私の中で花を咲かせてくれました。
ひるがえって、自分はこんな真摯な仕事をしてきただろうかと考えます。お茶の世界に限らず、日々の仕事の中で「すきな進路をとり、すきなところに花を咲かせる」ような、そんな人に影響を及ぼす渦巻を起こせているだろうかと、しばし考えてしまいます。

いまの仕事を始めたころ、この仕事が不向きなのではと思い詰めていた時期がありました。私にはこの人を目標にして仕事をしようと考えていた人がいて、その人から「あなたなら大丈夫、肩の力を抜いて、もっとあなたらしく仕事に向かってみては」と言ってもらいました。何気ない会話の中での一言でしたが、どれほど心強く励まされたか、しれません。

茨木のり子の詩は次のように続きます。

私がものを考える
私がなにかを選びとる
私の魂が上等のチーズのように
練られてゆこうとするのも
みんな どこからともなく飛んできたり
ふしぎな磁力でひきよせられたりした
この小さく鋭い龍巻のせいだ

これまで、どれほど多くの「小さく鋭い龍巻」によって私の魂は練られてきたのか、思い返せば気が遠くなるようです。自分が何を施したかではなく、自分が影響を受けてきた「龍巻」について、顧みることから始めなければならないと、改めて思います。


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京都茶道の旅

2024-09-20 21:03:18 | 日記

三連休を利用して、夫婦で京都に行ってきました。
炎天下、長距離を歩くのはお互いに無理だとわかっていたので、茶道に関係する場所だけにしぼって訪ねる旅でした。

裏千家今日庵の前でお互いの写真を撮っていると、茶道会館の方がわざわざ夫婦並んだ写真を撮ってくれました。一昨年お茶名を拝受した妻と、今年頂いた私とで、こうやって今日庵の前で並んでいる姿は、十年前には想像もしなかったことです。娘たちの独り立ちを間近にした、人生の門出にふさわしい記念写真だと、話をしました。

今日庵からしばらく歩いて到着した、京菓子資料館で頂いた薄茶の美味しかったこと。これまで頂いた薄茶のなかで、おそらく最も美しく点てられ、口当たりの良いお茶でした。

床の間には「掬水月在手」(水を掬すれば月手に在り)が掲げられています。禅語の中でも私の特に好きな言葉で、当ブログでも何度か取り上げたことがあります。日が暮れたのも忘れて野に遊んでいると、ひと掬いした掌中の水に思いがけず月が映っている、という詩の一部です。掌中の水に月が宿るように万物に仏性が宿る、などと解されることもありますが、私はむしろこの詩の中に描かれる「驚き」にこそ、心打たれるのです。

手のひらのひと碗のお茶の美しさ、美味しさは、突然に姿を現した月のように驚きであり、「掬水月在手」がより近くにあるように感じました。これまで、頭のなかでだけ理解したつもりになっていた言葉が、身体のなかにストンと落ち着いたような心地すらしました。
これから、この言葉に接したときには、必ず今日のこのお茶の味を思い出すだろう、そう思ったほど素晴らしい一服でした。

相国寺承天閣美術館は、お茶道具関係の充実した展示でした。
武家文化と禅宗とが融合し、室町幕府が京都にあったことから、この地で茶道文化が一気に開花したことがよくわかります。金閣寺にある茶室「夕佳亭」を原寸大で復元したものがあり、三畳の茶室が、のちに利休が大成した侘び茶の世界をすでに醸し出していました。

色々な展示会場を訪れて思ったことは、実際に現場を切り盛りしているスタッフが、たったひとりのケースが多いということでした。もちろん展示物の保存、展示、収集などには多くの関係者の労力と相当な費用が掛かっているのでしょうが、現場を任されているスタッフの苦労はいかばかりかと思います。
京菓子資料館の薄茶は、そんなたったひとりのスタッフに点てていただいた絶品でした。生涯忘れることのない味だと思います。


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月を読む

2024-09-13 23:48:14 | 日記

「月読み(ツクヨミ)」は名月の季節にふさわしい美しい言葉です。月を表す古語であると同時に、イザナギの禊から産まれた三貴神のひとりで、月を司る神を指す言葉でもあります。夜ごと姿を変える月、暦の基礎となる月に、古代の人々は神意を読みとろうとしていたのではないでしょうか。

万葉集に収められた次の歌には、ツクヨミの光の聖なる力が、読み込まれているように思います。

月読みの光に来ませ あしひきの山きへなりて遠からなくに
(湯原王『万葉集』)

万葉集をこよなく愛した良寛和尚は、この歌をもとに次のように詠いました。

月読みの光を待ちて帰りませ 山路は栗のいがのしげきに

良寛と交わりの深かった、庄屋で造酒屋の阿部定珍が、良寛の庵を訪ねてきたときのこと、日が暮れて慌てて帰ろうとする定珍が帰ろうとしたのを、もうじき月が出るでしょうからと、引き止めようとした歌です。山路には栗のイガが落ちていて、踏んでケガをするといけないと友を気遣うのです。

良寛の代表的秀歌とも言われる歌で、ツクヨミの光が友の帰路の安全を守ってくれるよう祈る、良寛の人となりが伝わってきます。
書物の所有にも興味のなかった良寛は、阿部定珍から万葉集を借りたことがあり、驚くべき記憶力で、その歌を自家薬籠中の物にしたのでした。そして、万葉集を貸してくれた友に、万葉集にちなんだ歌を贈ったのです。
「良寛禅師奇話」で良寛は「歌を学ぶには万葉がよろしい、古今はまだ良いが新古今以下は読むに堪えず」とまで述べており、技巧に走ることのない古代の歌の力を信じたのだと思います。

最後まで貧しい草庵での生活を貫き、物を持たぬことが、相手との距離を縮め、みずからの内のこだわりを捨てさせ、そして残るのは、相手を思いやる心だけになるのでしょう。
良寛は友人の家に寄宿することが度々ありましたが、仏の教えや詩歌について論じるわけでもないのに、家族の者たちに清々しい空気が流れ、去ったあとにも暫く和気藹々とした雰囲気が残ったと伝えられています。古代の人々が月を見たときの、一途な気持ちのまま人に接し、人もまた良寛に接したのだと思います。


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おみなえしの花

2024-09-06 23:43:20 | 日記

お茶の稽古の途中で女郎花が群生しているのを見かけました。
秋の七草にも数えられ、黄色い小さな花が可憐なので、茶花に格好のようにも見えますが、この花はお茶の世界では、かつて「禁花」とされていました。「女郎花」という名前がよくないというのがその理由だそうです。

万葉集に詠まれるおみなえしの歌は、いずれも好きな女性にたとえたもので、「女郎(おみな)」とはもともと「美しい女性」を意味していたものだそうです。万葉集のなかの「おみな」には「佳人」や「美人」の漢字が当てられていたことからも、もともとの語のニュアンスが理解できます。少し時代が下って、平安時代には「高貴な女性」を指していたといいます。

「遊女」の意味で使われるようになったのは、江戸時代になってからのことで、そうしてみると、この花は語の意味が変わることで大変な迷惑を被ったことになります。

良寛さんの歌に次のようなものがあります。

秋の野を我がわけ来れば朝霧にぬれつつ立てりをみなへしの花

朝早く秋の山をひとりで越えてくると、その道の辺で朝霧に濡れたままに、おみなえしの花が咲いていた、と良寛さんは詠みます。

良寛さんといえば、四十歳も歳の離れた「貞心尼」との交流が知られています。武家の出でありながら、夫婦関係がうまくいかず、実家に帰って出家したのが貞心二十三歳のことです。
七年間の修行の後も心が落ち着かない彼女は、良寛に会ってはじめて心を開く相手と巡り合ったように思うのでした。
ふたりの間には詩や歌を詠んだ書簡が残っていて、年の離れた恋人同士のように語られることもあります。良寛七十歳の時から七十四歳で亡くなるまでのあいだ交流は続き、良寛の枯淡な生涯が、とつぜんに華やぎに満ちたものに変わります。

前掲の歌に出てくる「をみなへしの花」に貞心尼の姿が重なります。良寛が貞心尼に会ったのも、おみなえしの咲く秋のことでした。貞心尼は非常に美貌の人と伝えられますが、この歌のおみなえしは、万葉の昔のように美しい人を意味するのではなく、どこか内向的でいて強い思いを持つ、この花の姿をそのまま体現する人を、指しているように思います。


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