俳優の渥美清さんは、「男はつらいよ」シリーズが12作、13作と進んだ頃、山田洋次監督に次のように語っていたそうです。
この作品が始まってから、私は町を歩いていると寅と呼ばれるようになりましたが、最初のうちはその呼び名に少し抵抗がありました。つまり、私、渥美清は寅ほどばかじゃない、多少の教養もある。あれはあくまで私が演じている役なのだ-そんなふうに胸の中で考えていたのですが、近ごろはそう思えなくなったのです。つまり、私渥美清ははたして寅よりも優れた人間なのだろうか、と疑うのです。いや、ひょっとすると渥美清は寅に追いぬかれていくのじゃないだろうか、と不安になったりもします。(『渥美清 浅草・話芸・寅さん』堀切直人著 晶文社 186頁)
これを聞いた山田洋次監督をはじめとするスタッフは強い感銘を受けます。山田監督は次のようにそのときの様子を語っています。
渥美氏のこの考え方は私たちスタッフに大きな影響を与えた。そのころから、私たちにとっての寅は、無知な愚か者であるより、自由を愛し、他人の幸福をもって自らの幸福と考え、財産、金銭には全く無欲な、神の心をもった存在に変わりつつあった。また寅の故郷である葛飾柴又の「とらや」は私たちにとっても永遠のふるさととなりつつあったのである。(前掲書 186頁)
内田樹さんは著書『大人は愉しい』(ちくま文庫)のなかで次のように述べています。
ちゃんとした大人は、それが芝居であることを知りつつ、芝居を通じて(この書き割りのなかで、この配役で、この時間内に)どのような「善きこと」を生み出すことができるのか、という限定的な課題に集中することができるはずです(121頁)。
それは人生という「舞台」の、ことごとくに言えることであると思います。
舞台こそが世界のすべてであると信じ込んで、舞台の外が存在する可能性について吟味しないこと、そのような頭の固い頑迷な生き方を選ぶ人もいるでしょう。
また一方で、これはしょせん芝居に過ぎない、あるいは割りふられた役回りに過ぎないと斜に構えてしまう人もいると思います。そして、いずれもが「ちゃんとした大人」の態度ではありません。
内田さんによると、知性とは「自省的な機能」の別名であり、「自省する」とは複数の視座を往復する「運動」のことを指します。
われわれは、はじめから人生という「舞台の上」に置かれており、舞台の外を知ることができない存在に過ぎません。だから舞台の上に固執したり、斜に構えたりせず、自らを省みることは「複数の視座を往復する運動」においてのみ実現されます。
すぐれた喜劇役者は「芝居の役の人物」と「役者という職能者」と「素顔の彼自身」の少なくとも三つを同時に演じ分けます。そのめまぐるしい往復のうちに、そのつど別の視座から「彼自身」と「彼をふくむシステム」を眺める「視点シフト」のスピードに私たちは魅了されるのです。(内田 前掲書 121頁)
大病をしてもともと体が弱かった渥美清さんは、年を重ねるにつれ、「視点シフト」の運動に体力を削がれていったようです。渥美さんは晩年に次のように語っていました。
誰もわからないだろうけれど、オレにとって、寅は高い舞台なんだよ。よいしょっと、力を入れて上がらなければ、なかなか寅にはなれないんだよ。若い頃はそれでもよかったけれど、年をとってくるとな、その舞台が、ますます高いものに見えてきた。上がるだろ、で、一回降りるだろ、すると次にまた上がるのが大変なんだ。(堀切 前掲書 195頁)
自省的な存在であり、プライベートの側面を一切公表したがらなかった渥美さんの「素顔」に、私たちは彼の舞台のうえで触れていたのでした。それは絶え間ない運動の所産であり、それゆえすぐれて知性的なふるまいでもあったのです。