犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

風は吹かない

2013-04-28 12:41:32 | 日記

孔子は門弟たちの「仁とは何か」の質問に対して、その人に応じた違った答え方をしています。『論語』述而篇には次のように語っています。

子曰く、仁遠からんや、我仁を欲すれば、すなわち仁至る。
先生がいわれた「仁は遠いものだろうか。わたくしたちが仁を求めると、仁はすぐにやってくるよ。」(岩波文庫 金谷治訳注  101頁)
 
仁は心がけ次第ですぐにも実践できるものだから、身近な他者に思いやりをもって接しなさい、という教えに解されるところです。ところで、孔子は別のところ(泰伯第八)で次のようにも述べます。
 
仁以て己が任となす。亦重からずや。死して後己(や)む。亦遠からずや。
仁をおのれの任務とする、なんと重いじゃないか。死ぬまでやめない、なんと遠いじゃないか。(前掲書 109頁)
 
これは、すぐに実践できることでも、継続することは難しいものなのだ、と言っているようにも受け取れます。しかし、内田樹さんは「我仁を欲すれば、すなわち仁至る」を次のように解釈します。
 
孔子は仁は「遠くない」ところにあると言う。にもかかわらず、仁を求める運動は「死して後やむ」まで終わることがない。これはどういうことだろう。
私たちにわかるのは、仁者は「仁が現にここに存在しない」という当の事実に基づいて、仁がかつて存在し、今後いつの日か存在しうることを確信するという、順序の狂った信憑形式で思考する人間だということである。「我仁を欲すれば、すなわち仁至る」とは、空間的に遠くにあるものを呼び寄せるという能動的なふるまいを指しているのではない。そうではなくて、「仁を欲するもの」が出現することによってはじめて「仁」という概念そのものが出現するという事況そのものを指しているのである。私はそのように理解した。(『昭和のエートス』文春文庫  91頁)
 
仁とは達成すべき目標としてどこかにあるのではなく、それを欲する者の存在によってはじめて、その概念が出現する。「死してやむ」とは、仁者によってかろうじて保たれていた仁が、その死によって端的に「やむ」ことを指すのだ、と言うのです。卓見だと思います。
 
道元によって著された『正法眼蔵』に次のような禅問答が記されています。
唐の時代の麻浴宝徹禅師がある暑い日に扇を使っていたところ、ある僧がやってきて問答を仕掛けた。「風それ自体は常に存在し、至るところ吹かないところはない。それなのになぜあなたは、ことさらに扇を使うようなことをするのか」禅師はこれに答えて言った。「君は風が至る所にあることは知ってはいても、吹かないところはない、という道理は知らないようだな」と。僧はこれに対して質問をした。「吹かないところはないという道理とはどのようなものですか」
禅師はこの時涼しい顔をしてただ扇を使っているだけであった。僧は深く道理を悟って禅師に礼拝した。
これが正法眼蔵に収められた禅問答のエピソードです。
 
禅僧の南直哉さんは、この禅問答の一般的な解釈は次のようなものだと説明します。
 
風それ自体はあるにしても、扇ぐ行為において風として現れる。同じように人間は誰しも仏としての本質(仏性)を備えているものだが、それは修行によってしか現れない、というのである 。(『正法眼蔵を読む』講談社選書メチエ 74頁)
 
しかし、南さんはこの考え方を退けます。
 
到るところで扇ぐ我々の行為が「風そのもの」なる概念を仮設させるのだ。風とは、実際に「吹く」ことなのだ。「風は吹かない」。「吹くものが風」なのだ。同じように、仏性が修行で現れるのではない。実際に修行することが「仏性がある」という言説を可能にしているのである。(前掲書 75頁)
 
仁者が仁を欲することによって、仁という概念を出現せしめたように、修行者が実際に修行をすることではじめて、仏性という概念も出現するのだと思います。
 
以上の論説が空理空論を弄するものではないことを「棄教」という観点から確認することができます。
内田樹さんの先の指摘は、エマニュエル・レヴィナスがユダヤ人の棄教をくい止めた「成人の神」の教えにつながります。ユダヤ人たちの中にはホロコーストの後、彼らの神が民を見捨てたことを恨み、信仰を捨てようとするものが相次ぎました。これに対して、レヴィナスはこう説得します。
 
あなたがたは善行を行えば報酬を与え、悪行を行えば懲罰を下す、そのような単純な神を信じていたのか。だとしたら、あなたがたは「幼児の神」を天空に頂いていたことになる。だが「成人の神」はそのようなものではない。「成人の神」とは、人間が人間に対して行ったすべての不正は、いかなる天上的な介入も抜きで、人間の手で正されなければならないと考えるような人間の成熟をこそ求める神だからである。(『昭和のエートス』92頁)
 
レヴィナス自身は「成人の神」について次のように述べています。
 
唯一神へ至る道には神なき宿駅がある。真の一神論は無神論の正当なる要請に応える義務がある。成人の神はまさに幼児たちの空の虚空を経由して顕現するのである。
その顔を隠す神とは、神学者の抽象でも、詩人の幻像でもないと私たちはそう考えている。それは義人がおのれの外部に一人の支援者も見出し得ない時、いかなる制度も彼を保護してくれない時、幼児的宗教感情を通して神が現前するという慰めが禁じられている時、一人の人間がその良心において、すなわち受難を通じてしか勝利し得ないその時間のことである。(『困難な自由』 国文社)
 
おのれの外部に一人の支援者も見出し得ない時、いかなる制度も彼を保護してくれない時、受難を通じてしか勝利し得ない「成人の神」は、「一人の人間の良心」が己む(やむ)ときに、端的に「やむ」のだと思います。

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