犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

明るい年越し

2021-12-31 11:45:57 | 日記

玄侑宗久がかつて、明るく生きることを「明度の高い生活」と呼んで、次のように語っていました。

誰でも子供の頃は、今鳴いたカラスがもう笑った、などとからかわれたことがあるだろう。そう、人は泣いていた時間を捨て、新たに展開した笑いの時間を生きるのである。禅ではそれを「放下」という。
放下し続けるのが生きることだし、死とは一切の放下ということだろう。
一瞬ごとに、「今」という一瞬が死んでいく。完全に死ねば、次の一瞬に前の一瞬が重ならない。重ね塗りにならないから、いつでもその色合いは鮮やかになる。楽しくとも哀しくとも、鮮やかなのである。(『サンショウウオの明るい禅』文春文庫 202頁)

子供たちの無邪気な姿に戻ることができれば、どんなに素晴らしいことでしょう。今日で終わる2021年を「放下」して、新しい年を明るく迎えればと思います。

と同時にこうも思います。
今年も色々な人の温かい気持ちに触れて支えられたり、どうしようもない哀しみに耐えたりしたのだけれども、それらを単に忘れ去ることではなく、その堆積のうえに間違いなく今日があるのだと。

そして、染色家の志村ふくみが語っていたことを思い出しました。
植物にもっとも多く見られる緑という色を植物から引き出して、糸に染め出すことはできません。それではどうするかというと、刈安などから作った黄色の糸を藍に掛け合わせることで、初めて緑という生命の色を引き出すことができるのです。太陽の光をいっぱいに浴びて育った植物から採られる黄色の糸に、甕で発酵させてできる藍を掛け合わせることによって、緑という生命の色が生まれます。決して黄と藍を「混ぜ合わせる」のではなく。

一瞬一瞬を「放下」することで、その一瞬の明度は増すのでしょう。同時にその一瞬を掛け合わせる、交わらせることで、全く新しい命の色を醸し出すことができるのだと思います。
私という器のなかで、明度を失わない今が掛け合わさって命の色が紡ぎ出されるとすると、それもまた明るい姿ではないでしょうか。

※※※※※※※※※※※

今年は自費出版という冒険をしました。ブログのなかで拙著をご紹介いただいた方もおられて、どんなに励まされたか知れません。来年が皆様にとって良い年でありますようお祈りします。


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かなしみをとどめる

2021-12-25 16:48:21 | 日記

姪の子どもに「サンタさん」の名前で絵本を送り続けています。
今年の一冊は、新美南吉著『でんでんむしのかなしみ』(大日本図書)でした。来年小学校に上がる子なので、ちょうど「かなしみ」という言葉も理解できる歳になっているかと考えました。

『でんでんむしのかなしみ』は次のように始まります。

一ぴきの でんでんむしが ありました。
ある ひ、その でんでんむしは、たいへんな ことに きが つきました。
「わたしは いままで、うっかりして いたけれど、わたしの せなかの からの なかには、かなしみが いっぱい つまって いるではないか。」
この かなしみは、どう したら よいでしょう。

でんでんむしは、友達のでんでんむしを幾人も訪ねて相談しますが、どのでんでんむしも同じように、「あなたばかりでは ありません。わたしの せなかにも、かなしみは いっぱいです。」と答えるばかりです。はじめのうちは落胆していたでんでんむしも、やがて、大切なことに気がつきます。そして、物語は次のように結ばれます。

「かなしみは、だれでも もって いるのだ。わたしばかりではないのだ。わたしは、わたしの かなしみを、こらえて いかなきゃ ならない。」
そして、この でんでんむしは、もう、なげくのを やめたので あります。

美智子上皇后が、かつてストレスが原因で倒れ、声を失われた時に、幼少期に親しんだ同書に再び触れることで、力づけられたのは有名な話です。

「かなしみ」は誰もが抱えていて、かなしみを埋めるために賑やかに集まってみても、塞がるものではありません。どこかで折り合いをつけて生きていかなければならないことを、必ず知ることになります。
「かなしみ」は目も眩むような深い谷底のようにも見えますし、どうしてでも退治しなければならないと思い込むのですが、そう思えば思うほど、谷底に吸い込まれてしまいそうになります。
うまい具合このあたりにいれば谷底には転落しないし、そこそこ楽しくやっていける、と割り切ることができれば、その場所で輝いている自分に気がつくこともできるでしょう。

ちいさい人が、その柔らかな心に「かなしみ」をきちんととどめることができますように。そう思いを馳せることができるのも、「かなしみ」が単に克服すべきものではないことを物語っているように思います。


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偶然が宿る器

2021-12-18 21:11:11 | 日記

遠方の出張先で、久しぶりに酒席に招かれ、したたかに飲んでしまいました。雪で交通手段が無くなればビジネスホテルに泊まろうと考えていましたが、JRのダイヤは動いていて、鈍行列車の駅ごとに扉が開く寒さに凍えながら、深夜どうやら家まで辿り着きました。
今朝、酒が残っているのか頭が少々痛く、列車のなかで縮こまっていた身体が重たいような気がしましたが、それでも布団から這い出して、茶道の稽古に向かいました。
きっと手先は動かず、手順も出鱈目だろうと思いながら始めた点前は、思いのほか滞りなく進みます。体調が良い時よりもむしろ無駄なく動けているような気がします。邪念が抜けることの手柄なのでしょうか。そう言えば「私が点前している」のではなく、「私のなかで点前が展開している」と感じる経験は、何度かありました。

前回ご紹介した『思いがけず利他』(ミシマ社)のなかで、中島岳志がちょうど同じようなことを書いています。
大学でヒンディー語を学び、インドでフィールドワークをしていた著者は、ヒンディー語の「与格構文」に注目しました。
「私はうれしい」という場合、ヒンディー語では「私にうれしさが留まっている」という言い方をします。自分の行為や感情が、不可抗力によって作動する場合、器のような主語に何かが留まるという構文が使われるというのです。主語の意志の力で何事かを行うことを基本に考える現代社会では、これはなかなか理解されにくい考え方です。

しかし例えば「私は日本語ができる」を、インドでは「私に日本語がやって来て留まっている」という与格構文を使う、という説明だと、なんとなくニュアンスは伝わります。私が日本語という言語を習得し所有するのではなく、私という器に言葉が宿り、私がいなくなっても言葉は器を変えて継承されるというイメージが、この文法によってもたらされます。
すぐれた数学者のインスピレーションも「私が」生み出したものというよりも、「私に」もたらされたものという表現の方が、正しく実態を言い表しています。本書にも引用されていますが、染色家の志村ふくみは次のように述べています。

ある人が、こういう色を染めたいと思って、この草木とこの草木をかけ合わせてみたが、その色にはならなかった。本にかいてあるとおりにしたのに、という。
私は順序が逆だと思う。草木がすでに抱いている色を私たちはいただくのであるから。どんな色が出るか、それは草木まかせである。ただ、私たちは草木のもっている色をできるだけ損なわずにこちら側に宿すのである。(『色を奏でる』ちくま文庫

中島岳志は前掲書で、数知れぬ偶然に晒されながら、人は今を生きていることを語ります。そして「あとがき」に次のように補足しています。

重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器になることです。偶然そのものをコントロールすることはできません。しかし、偶然が宿る器になることは可能です。(176頁)

私が茶道の稽古を始めたことも、師匠に師事したことも、過去の練習の熱心さ具合もすべて偶然に過ぎません。「私が点前をしている」というよりも、私という器にそれらの偶然が宿り、「私という器のなかで点前が展開している」という感覚の方が、むしろ事実を正確に言い表しているのかもしれません。点前の未熟さを反省しながらそう考えました。

よろしかったこちらもどうぞ →『ほかならぬあのひと』出版しました。

 


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なぜ困っている人にお金をあげるのか

2021-12-10 18:33:33 | 日記

落語の人情噺には、金を無くして困っているひとに、なけなしの金をポンとあげる噺がいくつかあります。
先日たまたま付けたテレビで、笑福亭学光が「千両の富くじ」を演っていました。金をすられて困っている丁稚のために、貧乏侍が明日の生活のためのなけなしの金をあげてしまいます。残りの金で買った千両富くじで千両を当てたけれども、その後紆余曲折があってという筋書きです。
また、先日読んだ『思いがけず利他』(中島岳志著 ミシマ社)も落語噺「文七元結」に触れています。博打好きのせいで吉原に娘を預けることになった貧乏職人が、出直して娘をとり戻すために借りた金を、商売の金を盗まれて死のうとしている人のためにあげてしまう話です。
人情噺ですので、その後色々な人の善意もあって、どちらの話も大団円を迎えるのですが、「文七元結」について立川談志は、どう解釈してよいのか悩み抜いたのだそうです。

前掲書『思いがけず利他』によると、こうです。
なぜ見知らぬ人に大切なお金をあげてしまうのか、困っている人への共感でもあろうし、江戸っ子の気質でもあるでしょう。三代目古今亭志ん朝は、この両局面を重層的に組み合わせて語りました。ところが立川談志は徹底して困っている人への共感を排除しようとしました。人間の業を描くことを落語の命と考えていた談志にとって、困った人への共感を描いてしまっては「業」が消えてしまうのです。大団円を迎えることは皆承知で、それが聞きたくて噺を聞きに来ているのだとすると、「情けは人のためならず」というセコイ根性につながりかねません。「金をくれてやるのは最後の博打だ」などという露悪的なセリフまで考え出して、談志はこの噺と格闘したのだそうです。

談志は答えを見つけきれないうちに亡くなってしまったようですが、著者は談志の悩みを引き継いで、著者なりの答えを示しています。
詳しくはぜひ同書を読んで確認していただきたいのですが、ひとつだけ要点をお話しすると、利他的な行為や贈与には、「贈り手」と「受け手」に時制のズレが生じるということです。
「利他」が「利他」として、「贈与」が「贈与」として成立するためには、受け取った側が「正しく受け取った」と認識する必要があります。そこがスタート地点です。贈り手は、どうか届きますようにという祈りを込めて「未来へ向けて」贈り物をします。受け手は、そういえばこんな大切なものをもらったとか、こんな大事な言葉をかけてもらったとかを「過去にさかのぼって」はじめて気付くのです。
学校の先生にかけてもらった言葉が、数十年後にかつての生徒の心に響くのを想像してもらえばいいでしょう。

さて、贈り手と受け手の時制がズレることを正しく認識するとどうなるでしょう。
この認識は、贈り手には勇気と辛抱強さとを与えてくれるはずです。今ここでの見返りを求める小心さ、性急さから自由になります。
時制がズレているという認識は、受け手には謙虚さを与えてくれます。今こうしてあることは、偶然の積み重ねであって、自分ひとりの手柄でもなければ、自己責任で割り切れる話でもなくなるのです。
談志が描きたかった人間の「業」は、与える側の祈りによって、受け取る側の驚きによって、業そのままに再現されるはずです。

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永久保存用のじぶん

2021-12-03 20:18:35 | 日記

歌人穂村弘のエッセイ集『蚊がいる』(角川文庫)所収「永久保存用」のなかの話です。
生産中止になるラミーの万年筆を慌てて買い込み、気に入って使っていたところ、机の上から転げ落ちて凹んでしまいます。
その凹みを気にしながら、あるマニアの人が自身のコレクションについて述べていたのを、穂村弘は思い出しました。その人は使う用、予備、永久保存用と必ず3種類を買うのだそうです。それにしても、予備用の位置付けはどうなるのだろうと考えているところに、穂村の担当する雑誌の短歌コーナーに次の歌が送られてきます。

どうせ死ぬ こんなオシャレな雑貨やらインテリアやら永遠めいて

穂村は、この歌をしみじみと良いと思い、選評を書きます。

「永遠めいた表情の『雑貨』や『インテリア』は、その『オシャレ』さで私たちを騙して真の永遠から遠ざけてしまう。『どうせ死ぬ』と腹を括ることで、初めて一瞬という名の永遠に触れる可能性が生まれるのかもしれません」
そんな選評を書きながら、後ろめたい気持ちが込み上げてくる。何故なら、そういう自分は全く腹を括れていない。永久保存の僕、を買いそうな私なのだ。
使う用の他に保存用を求めるのは、永遠めいたモノたちにさらに保険をかけて、永遠そのものにしたい、と願う心だろう。だが、求めれば求めるほど、全身の細胞のひとつひとつに「どうせ死ぬ」が鳴り響き、私は永遠から遠ざかる。逆。逆。逆。逆なのだ。「どうせ死ぬ」のなかにこそ、真の永遠はある。理屈はわかっている。だが…(72頁)

これは大上段に振りかぶった理屈を、みずから笑ってみせるという半捻りのようなものではないでしょう。「『どうせ死ぬ』のなかにこそ、真の永遠はある」これは偽らざる実感ではあるものの、そこに自足すること自体、自家撞着に陥ります。永遠をあきらめるための「どうせ死ぬ」だったのですから。
「どうせ死ぬ」は、とりわけ穂村にとって差し迫った実感です。穂村の評論『短歌という爆弾』(小学館文庫)に、死についての強迫観念のようなものが記されているのを思い出しました。
しかし、それと同時に腹を括れない自分もどうしようもない真実であって、この二重の方向に向かって激しく分裂するほかないのが、生きるということではないでしょうか。選評にみずから記した内容は、それだけを取り出して永遠の真理だと言ってしまえば、人生が引き受けなければならない二重性を回避することになってしまいます。

もちろん、こうやって文章にしてみて、この件一丁あがりだとするならば、穂村の心の叫びが返ってきます。「逆。逆。逆。逆なのだ」と。


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