前回、自分の歳と折り合いがつかぬまま生きることを、「馴れぬ歳を生きる」などと言いました。その折り合いのつかない感じが、ジタバタと悪あがきのように生きる力を生み出すのではないかと。
しかし「老成円熟」という言葉があるように、六十歳過ぎて「馴れぬ歳を生きている」などと言っているのは、かつては老成しきらぬ未熟者の言い草だったでしょう。さっさと自分の歳と折り合いをつけて、老人然としているのが、よき歳のとり方とされたのではないかと思います。
今は人生百年時代などと喧伝されて、もっと働けと尻を叩かれます。健康を維持するのは自己責任だとばかりに脅かされる時代でもあります。
むろん、そんなおカミの都合に迎合する必要はありませんが、ある種の呪縛から解き放たれる時代に生きているのではないでしょうか。つまり考えようによっては、老人然とすることから自由になることと言えるのではないか、とも思うのです。生涯、馴れぬ歳を生きてみる、折り合いのつかない自分を誤魔化さずに生きてみると、開き直ることが許されているのだと。
ここまで書いてきて、染織家の志村ふくみが、「六十の手習い」について素晴らしいことを書いていたのを思い出しました。エッセイ集『語りかける花』(人文書院)に収められているのですが、今から三十年以上前の文章で、その後の志村ふくみをそのまま言い表しているようにも思います。
六十の手習いというのは、六十歳になって新しいことを始めるという意味ではなく、今まで一生続けてきたものを、改めて最初から出直すことだと思う。(中略)
今まで夢中で山道を登ってきたつもりが、よく見ればいかほどの峠にさしかかったわけでもない。もう一度山の麓に立って登り直す方がずっと魅力的だと思うわけは、要するにもう一度あの、わくわくした新鮮な驚きをもって仕事をしたいのである。(前掲書 56頁)
馴れぬ歳を生きることは、ここでは「わくわくした新鮮な驚き」を生きることへと昇華され、より明確な意志に支えられています。「もう一度あの、わくわくした新鮮な驚きを」と思える心の強靭さ、しなやかさを、私も持っていたいと思います。