五月に入ると、お茶の稽古も「炉」から「風炉」に変わります。
社中の先輩が「令和元年の初風炉お目出度うございます」と師匠に挨拶されたので、炉開きが茶人の正月であるのと同じように、改元のタイミングで迎える初風炉の今日という日も、めでたい日なのだと改めて気付きました。
床には「梨花一枝春」の軸が飾られています。
禅語として使われる場合には、「わずか一枝の梨の花にも、天下の春は十分に表れている」と解されるところです。
出典は白居易の『長恨歌』で、玄宗皇帝が道士に命じ、亡くなって仙女となった楊貴妃を訪ねて行かせる、というくだりです。ようやくたどり着いた道士は、美しく舞うように現れた仙女の様子を次のように詠います。
玉容寂寞涙闌干
梨花一枝春帯雨
玉のような美しい顔は寂しげで、涙がぽろぽろとこぼれ
梨の花が一枝、春の雨に濡れている。
道士は、悲しくむせび泣く楊貴妃をみて、春雨に濡れる梨の花になぞらえたのです。
桜の花によく似た梨の花は、赤みのない真白な花弁で、一心に天を仰ぐように咲くのが特徴です。けなげに上を向く可憐な花のうえに、雨が降りそそぐさまが、楊貴妃の涙のように見えたという、叙情的な詩です。
『長恨歌』では、「一枝の梨の花」も「春」も雨に沈んで泣いています。一木一草に天下の春は宿るという禅語の一般的な理解では、ここは物足りない。
敢えて、長恨歌の持つ奥行きを活かすとするならば、万物に顕れる春は、同時に深い悲しみをたたえている、ということになるでしょうか。
美しい花々や柔らかい光を存分に楽しませてくれた春が、いままさに過ぎ去ろうとしています。新しい時代の幕開けは、ひとつの時代の終わりであることも意味しています。