直方市立図書館に行ってきました。コロナ禍でずっと訪問がかなわなかった「筑豊文庫資料室」が目的です。
筑豊の炭鉱を舞台とした記録文学作家、上野英信さんが自宅に開設した「筑豊文庫」の書籍や資料を2016年に遺族が直方市に寄贈し、それが昨年7月に図書館内の筑豊文庫資料室としてオープンしたものです。
在りし日の上野英信さんは、自宅を「筑豊文庫」として解放しました。多くの学者、作家、ジャーナリスト、学生がここを訪れ議論する場所だったのだそうです。
上野さんは関東軍に入隊し、将校として広島に配属され、その地で被爆します。戦後復員して京都大学に編入しますが、中退し出奔するように筑豊の炭鉱労働者になります。公安や福祉事務所の手先ではないかと疑われながら、廃坑集落の住民の悩みを聞き、励まし、叱り、声を噛み殺し共に泣いて、地域に受け入れられた人でした。
さて、資料室で目を引くのが、8人掛けほどのテーブルです。これは議論の場であった上野家の食卓の複製で、もともとあった傷跡まで再現されたのだそうです。単なる常設展示室ではなく、色々な人が交流する場として育ってほしいという、長男上野朱さんの思いが、このテーブルには込められています。
拙著『ほかならぬあのひと』でもご紹介しましたが、わたしが上野英信さんを知り、深く心を動かされたのは、作家の葉室麟さんの没後刊行エッセイ『曙光を旅する』(朝日新聞出版)に筑豊文庫のことが記されていたからです。まだ大学生だった葉室さんが、筑豊文庫を訪ねたとき、上野さんは「あなたが来るというので昼間、僕が近くの土手で取ってきたよ」と言って、つくしの卵とじを振舞ってくれたのが忘れられない思い出だ、そう葉室さんは書いています。
著名な小説家になった葉室さんが、上野朱さんを訪ねて来たときの様子を、朱さんが『曙光を旅する』に追記しています。葉室さんはメモ用紙に遺された上野英信さんの絶筆をしばらく眺めたあと、顔を歪めて嗚咽していた、と。
絶筆のメモには、次のように記されていました。
筑豊よ
日本を根底から
変革するエネルギーの
ルツボであれ
火床であれ
このメモの複製も展示されています。葉室さんは『曙光を旅する』にこう書いています。
最後の力を振り絞って遺した5行の文字はあたかも祈りを思わせる。それでいて、ひとが目を閉じ、耳をふさぐことを許さない雄勁な言葉だ。(138頁)
上野さんにとって目を閉じ、耳をふさぐことのできないものが、広島での被爆体験でした。「人間が見てはならない凄絶な生地獄の光景を消さなければ、到底生きて行かれなかった」(『話の抗口』)と述懐するように、上野さんは地の奥の世界に生き場所を求めました。そこで見たものは、別の地獄であり、変革への希望の光でもあったのだと思います。
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