犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

筑豊文庫資料室を訪ねる

2021-11-26 20:30:40 | 日記

直方市立図書館に行ってきました。コロナ禍でずっと訪問がかなわなかった「筑豊文庫資料室」が目的です。
筑豊の炭鉱を舞台とした記録文学作家、上野英信さんが自宅に開設した「筑豊文庫」の書籍や資料を2016年に遺族が直方市に寄贈し、それが昨年7月に図書館内の筑豊文庫資料室としてオープンしたものです。

在りし日の上野英信さんは、自宅を「筑豊文庫」として解放しました。多くの学者、作家、ジャーナリスト、学生がここを訪れ議論する場所だったのだそうです。
上野さんは関東軍に入隊し、将校として広島に配属され、その地で被爆します。戦後復員して京都大学に編入しますが、中退し出奔するように筑豊の炭鉱労働者になります。公安や福祉事務所の手先ではないかと疑われながら、廃坑集落の住民の悩みを聞き、励まし、叱り、声を噛み殺し共に泣いて、地域に受け入れられた人でした。

さて、資料室で目を引くのが、8人掛けほどのテーブルです。これは議論の場であった上野家の食卓の複製で、もともとあった傷跡まで再現されたのだそうです。単なる常設展示室ではなく、色々な人が交流する場として育ってほしいという、長男上野朱さんの思いが、このテーブルには込められています。

拙著『ほかならぬあのひと』でもご紹介しましたが、わたしが上野英信さんを知り、深く心を動かされたのは、作家の葉室麟さんの没後刊行エッセイ『曙光を旅する』(朝日新聞出版)に筑豊文庫のことが記されていたからです。まだ大学生だった葉室さんが、筑豊文庫を訪ねたとき、上野さんは「あなたが来るというので昼間、僕が近くの土手で取ってきたよ」と言って、つくしの卵とじを振舞ってくれたのが忘れられない思い出だ、そう葉室さんは書いています。
著名な小説家になった葉室さんが、上野朱さんを訪ねて来たときの様子を、朱さんが『曙光を旅する』に追記しています。葉室さんはメモ用紙に遺された上野英信さんの絶筆をしばらく眺めたあと、顔を歪めて嗚咽していた、と。

絶筆のメモには、次のように記されていました。

筑豊よ
日本を根底から
変革するエネルギーの
ルツボであれ
火床であれ

このメモの複製も展示されています。葉室さんは『曙光を旅する』にこう書いています。

最後の力を振り絞って遺した5行の文字はあたかも祈りを思わせる。それでいて、ひとが目を閉じ、耳をふさぐことを許さない雄勁な言葉だ。(138頁)

上野さんにとって目を閉じ、耳をふさぐことのできないものが、広島での被爆体験でした。「人間が見てはならない凄絶な生地獄の光景を消さなければ、到底生きて行かれなかった」(『話の抗口』)と述懐するように、上野さんは地の奥の世界に生き場所を求めました。そこで見たものは、別の地獄であり、変革への希望の光でもあったのだと思います。

よろしかったらこちらもどうぞ →『ほかならぬあのひと』出版しました。


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巨木の「足跡」、人間の「筆跡」

2021-11-19 22:31:11 | 日記

前回ご紹介した『イチョウ 奇跡の2億年史』(P.クレイン著 矢野真千子訳 河出書房)を読んで強く印象に残ったことは、歴史をたどる「時間の単位」が途中で大きく変わることです。イチョウが大繁殖した太古から絶滅寸前に至るまでの時間の単位と、ようやく生き残った種が復活していく過程の時間の単位とがまったく異なるのです。

化石の研究によって過去から現在までの歩みをたどる道筋は、著しく時間の単位が大きなものでした。2億年前に出現し、約6千5百万年栄えたイチョウが、数百万年前に絶滅しかかったところまでは、「数千万年」短くても「数百万年」の単位で時間が測られます。科学の言葉で語られる悠久の時間です。

ところが、中国南西部に生き残った種が、中国各地で栽培され始め、それが日本にたどり着き、やがて長崎出島からヨーロッパへと渡っていく時間の単位は、「百年」から「数十年」に縮まります。古文書や交易記録など、年代を確定しやすい媒体に書き留められるからです。そしてヨーロッパ各地での移転の過程は、手紙のやりとりなどで、ピンポイントで時期が特定されます。
イチョウ絶滅間近からの復活は、人間が関与しており、その関与の過程で何らかの記録が残されるので、当然といえば当然の結果です。時間の単位が「人間サイズ」になっていくとも言えるでしょうか。あるいは、絶滅寸前までの歴史が、巨木の「足跡」だとすれば、復活していく歴史は、人間の「筆跡」と言い換えられるかもしれません。

著者P.クレインは本書の最後に絶滅危惧種の保存について論じるなかで、次のように語っています。なぜ種を保存するのかという問いに対して、「芸術作品を保存する理由を考えてみればいい」というたとえ話を聞くことがあるが、それは大事な点を見落としているのではないかと。
著者の印象的な文章を引用します。

私にとって、ヒトが数日あるいは数年かけてつくりあげたものを失うことと、自然が何千年もかけてつくりあげたものを失うことは根本的に違う。どちらも悲惨な損失ではあるが、名作の消失と種の消失では比べものにならない。ヒトの創造力と自然の創造力を同列に論じてしまうと、私たちが直面している問題の大きさを見過ごすことになる。だから、同じたとえ話なら、「介入できることがあるのにそれをしないで種を絶滅させることは、本の読み方をおぼえたら図書館は焼いてしまってもいいという考え方に等しい」という話を私は使いたい。図書館が焼失したら、そこに収納されていた情報も、私たちが世界を知るための入り口も失われる。種が絶滅したら、過去を知る機会が失われる。過去を知ることは、未来の舵とりにかならず役に立つ。(380頁)

私たちは、たとえばイチョウの歴史をたどるときに、絶滅しかかった種を誰がどのような偶然の力によって復活につなげたか、という話に惹かれます。長崎出島からヨーロッパへ知られる過程などは、ワクワクして読み進めることができます。一方、その「人間サイズ」の物語の前段階に、その数百万倍の自然の歴史が存在したことは、「前史」程度に軽く扱われることがあるかもしれません。
しかし、そうではなくサイズの異なる歴史を合わせた、すべての生命の過程が私たちにとって欠くべからざる自然史なのだと、本書は物語っています。それは同時に「人間サイズ」の歴史が、イチョウの自然史のほんの数百万分の一に過ぎないことを認めることでもあります。
実際、イチョウの巨木は人間を圧倒し、その黄葉が醸し出す世界は人間にとって異世界のようにも見えます。イチョウの存在そのものが「人間サイズ」のものの見方を、簡単に相対化してしまうような力を持っているのだと思います。

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イチョウの2億年史

2021-11-13 21:43:11 | 日記

2年前の今頃、出張先の近くにあるイチョウ林を訪れる機会がありました。
ぶどう農家の方が、亡くなった奥様への思いを込めて農園跡地に約80本のイチョウを植樹したものが立派な樹林になっており、初冬には葉は金色に染まり、敷地一面が黄色い落葉のじゅうたんに覆われます。ふだん見慣れた街路樹の銀杏とは違い、黄金色に輝く樹林は荘厳で、異世界にまぎれこんだような、不思議な気持ちにさせられました。

そのことは、当時のブログに記しており、拙著『ほかならぬあのひと』にも記したところです。イチョウは約2億年前の中生代ジュラ紀に栄えたにもかかわらず、170万年前の氷河期に恐竜とともに姿を消し、生きた化石とも言われる壮大な歴史を抱えています。この歴史をまとめた『イチョウ 奇跡の2億年史』(P.クレイン著 矢野真千子訳 河出書房)の存在を知りませんでしたが、今秋文庫化されたものを書店で見つけました。

本書によると、イチョウの歴史を化石から辿る研究は極めて困難で、沢山の化石のうちどれが同種で、どれが進化の同系統のものなのかを特定するのは、試行錯誤の連続だったようです。化石の研究によると、2億年前に出現したイチョウは、6500万年の間、北半球のほぼ全域に存在し、一億年前頃から減退していきます。そして数百万年前に絶滅の危機にあった種は中国南西部でかろうじて生き延びます。遺伝的多様性が大きい集団が少ない集団の母集団だという仮説に立ってDNA 解析でイチョウの祖先を辿ると、天目山と四川盆地南の谷間あたりの2箇所に絞られてきます。

中国南西部で生き延び、人の手で栽培されて繁殖したイチョウは、それではいつ頃日本にきたのでしょう。色々な文献や中国との交易記録などからみて、おそらく14世紀頃だろうと著者は推測します。源実朝を暗殺した公暁がイチョウの木の陰に隠れて待ち伏せしていたという話は、『吾妻鏡』にも『愚管抄』にも記載されておらず、後世の脚色だろうというのです。

日本に根付いたイチョウは、やがて長崎出島にオランダから派遣されたエンゲルベルト・ケンペルによって“ginkgo”(ギンコー)としてヨーロッパに紹介されます。「銀杏」の音読みのローマ字表記“ginkyo”のスペルミスではないかと言われることについても、著者は疑問を投げかけます。日本語の読み方と文字表記の法則性を詳しく調べていたケンペルがミスを犯したと考えるより、むしろ彼の出身地ドイツ北部の「ヤ、ユ、ヨ」表記に従って、聞こえた通りに表記したと考える方が自然ではないかと。

いずれにせよ、数百万年前に一度消えてしまったイチョウは、出島でのヨーロッパ人との接触を期に人の手で次々に移されて、たった百年という短い時間で全世界で復活します。
著者の並々ならぬ「イチョウ愛」を感じるとともに、絶滅しかけた種が人間の手で復活する本書の物語は、とりわけ今という時代に大きな希望を抱かせてくれます。

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一粒万倍の炉開き

2021-11-06 19:05:02 | 日記

今日のお茶の稽古は炉開きでした。今日から炉を使っての稽古が始まります。

旧暦十月の「亥」の日に、炉を開いてお祝いをするのが炉開きです。亥は子だくさんで火を消す習性があることから、子孫繁栄と火難を免れることを祈ってこの日に炉を開くことを始めたのだそうです。
炉開きでは、師匠が社中にぜんざいを振る舞います。ぜんざいの小豆には子孫繁栄を願う思いのほかに、陰陽の調和を図るという意味があるのだそうです。亥の月日が「陰」であるのに対して、小豆という「陽」のものをいただくのです。

薄茶の稽古では、玄々斎好みの「徳風棗」が使われました。
徳風棗には蓋の表に「一粒万倍」の文字が、蓋裏に籾が九粒描かれています。一粒の籾からいくつもの稲穂が育ち、籾は万倍に増えていくという、これも子孫繁栄の思いに通じます。蓋裏の籾の九は「陽=奇数」の最大数であり、陰陽調和の思いが込められています。
ちなみに徳風棗の「徳風」とは、論語の言葉「君子の徳は風なり」から取られたものです。君子の徳は風のように人々を統べる、という意味でしょうか。君子の徳は、それでは陽なのか陰なのか。枝を張り葉を繁らせて無限に分化する働きは「陽」であって、その分化、派生をひとつにまとめて、活力を蓄える働きが「陰」なのだとすると、徳風は「陰」の働きなのではないか、などと考えます。

茶道の作法には、この「陰陽」の話がよく出てきますが、わたしはあまり熱心に耳を傾けることはありませんでした。その考え方じたいに人を励まし導く力を感じることができないからです。しかし、炉開きの席で、懐かしい社中のお顔を久しぶりに拝見して、しみじみと感じることがあります。
事故でお身内を亡くされて、しばらく喪に服されていた方の姿もあって、皆でおめでとうございますと声を揃えるときには、そこに祈りのようなものが込められていたように思いました。祈りにはおのずから形が生じ、陰や陽といった言葉が結ばれるのでしょう。その言葉に各々の思いを乗せることで、祈りは倍音のように膨らむように感じました。
お茶の席が、人と人が出会って思いをかよわせる場なのだということを、改めて考える一日でした。

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存在に触れるレッスン

2021-11-02 22:06:10 | 日記

昨日まで庭に咲いていた秋明菊の花が褪せて行き、ホトトギスの花がひとつひとつ萎れて行く。昨日まで確かにあったものが無くなることを、小さな庭のなかで日々感じます。

ものの不在をたくみに詠んだ歌人が、藤原定家です。

駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮れ

この歌では、わざわざ馬をとめて、袖につもった雪を振り払う様がまず描かれます。大変な雪なのだろうと想像したところに、「陰もなし」と続きます。そんな人さえもいない、雪におおわれた夕暮れの景色だけが広がっているのです。一度イメージさせた「駒とめて袖うちはらふ」姿が消えないまま、そこにかぶさるように夕暮れの情景が詠われるので、寂しさがいっそう強調されることになります。定家はこの手法を用いて、ものごとの不在による寂しさを詠んでいます。

み渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ

瞬間的に想起させた花や紅葉の彩りが、直ちに「不在」となるレトリックによって物寂しい世界を演出しています。
このような定家の手法は、巧みさを感じさせるものではあっても、しかし、そこに描かれているのは端的な「不在」に留まります。
いまは不在となっても、自然は大きな循環のなかでやがて存在を取り戻しながら、わたしたちを大らかに包み込んでいました。

しかし、この大きな循環に身を任せていた世界は、どこか遠くに離れてしまったようにさえ感じます。
実際、コロナ禍で去年までの催物が取りやめになり、人生の節目の行事も思うに任せなかったひとは数知れません。取り返しがつかないように「ない」ことを、私たちは身近に経験してきました。

森田真生は前にも紹介した近著『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(集英社)のなかで、環境哲学者ティモシー・モートンの詩のフレーズ「くり返しがないと想像してみよう」(imagine there’s no repetition) を引いて次のように述べます。

目の前でどれほど素晴らしいことが起きていたとしても、僕たちはそれが「二度と起きない」可能性をあまり考えようとはしない。友人との愉快な会話も、家族との何気ないひと時も、夕陽も、落ち葉も、庭に訪れる野鳥も‥…。すべては明日、来年、あるいはまたいつか、再びくり返すのではないかと信じているのだ。
だが「くり返しがないと想像してみよう」。落ち葉を踏む音、金木犀の香り、星空、秋の木漏れ日‥…。目の前にあるすべてが、二度とないと想像してみる。不在を想うことを通して、存在に触れるレッスンである。(138頁)

もしもなかったら、と想像してみることを、モートンは「引き算の想像力」と呼びます。
もしもなかったら、と想像することで、いまあるものの存在に思いを馳せることになります。ひいては、それを支えていたものに思いを致し、その支えていたものと自分とのかかわりにも思いは及んでいくことでしょう。
「こうやって世界とかかわっていこう」という態度へとつながるのだとすれば、それは世界を生きるレッスンなのだと思います。

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