気持ちよい五月晴れが広がって、稽古場のツクバイの水面に青空が映っているのを、眩しく眺めました。
水面に映る青空は、井戸の底から仰ぎみたときの、限りなく広がる出口のようにも感じます。
茶道に馴染みのない場所に出向き、そこで茶事を催すために、みずから茶道具を積んだ車を駆って東奔西走する茶人、半澤鶴子さんのことをかつて当ブログで取り上げました。けっして茶道文化を啓蒙しようとするのではなく、茶事というやり直しのきかない場を通して、みずからがいかに未熟であるかを見極め、受け入れるための旅です。
そのバイタリティーあふれる姿は、NHKドキュメンタリーで海外にも放送され、大きな反響を得ました。
番組のなかで、半澤さんがしみじみと次のように語っていたのが印象的でした。
井の中の蛙大海を知らず
されど空の青さを知る
幼くして両親と別れ、広島で過ごしていた頃、家の近くに井戸があり、その井戸の底に映る空の青や、白い雲がいつまでも見飽きない心の支えだったと言います。
自分の限界を知り、その限界を突破することに命を賭ける半澤さんにとって、みずからの立ち位置は井戸の底であり、そして空の青さは疑いもなく救いの光だったのでしょう。
「井の中蛙大海を知らず」は、『荘子』が出典ではありますが、その後に続く「されど空の青さを知る」はわが国のオリジナルだそうです。いかにも「分をわきまえる」わが国文化を表している、と言われたりもします。
しかし、井戸の底から仰ぎみて、どこまでも青い空が垣間見えている様子は、世界の無限の広がりを井戸の中にいる者にも感じさせるのです。
「大海を知る」と井戸の中で豪語する蛙は、間違いなく「井の中の蛙」でしょう。しかし、井戸の中にいるけれども「空の青さを知る」という蛙は、もはや井戸の中を超え出ているのではないでしょうか。「大海」という頭のなかでこねまわした想像物ではなく、疑いのない経験として井戸の外を見ており、外へと心が通じているからです。
そうすると、井戸の中にいることとは、狭い世界に閉ざされていることのみを指すのではなく、みずからのなかに奥深く沈潜し、そこから外へと繋がろうとする姿にも重なるのではないかと思います。
5月に入り風炉の点前の稽古が始まると、稽古場のふすまは開け放たれ、窓からも気持ちの良い風が吹き込んできます。点前に集中していても、外へ外へと気持ちが広がるような心地がします。