犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

空の青さを知る

2024-05-26 08:16:37 | 日記

気持ちよい五月晴れが広がって、稽古場のツクバイの水面に青空が映っているのを、眩しく眺めました。
水面に映る青空は、井戸の底から仰ぎみたときの、限りなく広がる出口のようにも感じます。

茶道に馴染みのない場所に出向き、そこで茶事を催すために、みずから茶道具を積んだ車を駆って東奔西走する茶人、半澤鶴子さんのことをかつて当ブログで取り上げました。けっして茶道文化を啓蒙しようとするのではなく、茶事というやり直しのきかない場を通して、みずからがいかに未熟であるかを見極め、受け入れるための旅です。
そのバイタリティーあふれる姿は、NHKドキュメンタリーで海外にも放送され、大きな反響を得ました。

番組のなかで、半澤さんがしみじみと次のように語っていたのが印象的でした。

井の中の蛙大海を知らず
されど空の青さを知る

幼くして両親と別れ、広島で過ごしていた頃、家の近くに井戸があり、その井戸の底に映る空の青や、白い雲がいつまでも見飽きない心の支えだったと言います。
自分の限界を知り、その限界を突破することに命を賭ける半澤さんにとって、みずからの立ち位置は井戸の底であり、そして空の青さは疑いもなく救いの光だったのでしょう。

「井の中蛙大海を知らず」は、『荘子』が出典ではありますが、その後に続く「されど空の青さを知る」はわが国のオリジナルだそうです。いかにも「分をわきまえる」わが国文化を表している、と言われたりもします。
しかし、井戸の底から仰ぎみて、どこまでも青い空が垣間見えている様子は、世界の無限の広がりを井戸の中にいる者にも感じさせるのです。

「大海を知る」と井戸の中で豪語する蛙は、間違いなく「井の中の蛙」でしょう。しかし、井戸の中にいるけれども「空の青さを知る」という蛙は、もはや井戸の中を超え出ているのではないでしょうか。「大海」という頭のなかでこねまわした想像物ではなく、疑いのない経験として井戸の外を見ており、外へと心が通じているからです。

そうすると、井戸の中にいることとは、狭い世界に閉ざされていることのみを指すのではなく、みずからのなかに奥深く沈潜し、そこから外へと繋がろうとする姿にも重なるのではないかと思います。

5月に入り風炉の点前の稽古が始まると、稽古場のふすまは開け放たれ、窓からも気持ちの良い風が吹き込んできます。点前に集中していても、外へ外へと気持ちが広がるような心地がします。


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過去帳を書く

2024-05-19 12:03:03 | 日記

二年前の転居のときに、新居では入りきれない仏壇を買い替え、ついでにまっさらな過去帳を買ったのですが、空白のまま仏壇にしまっていました。
先日、意を決して位牌や法名軸を仏壇からとり出し、年代順に並べかえ、ひとりひとり、先祖の名前を過去帳に納めました。
法名に「泥蓮」の字のついた先祖もあり、よほど苦労を重ねた人だったのだろうと思いました。泥の中からどんな花を咲かせたのだろうとも思いを馳せました。

以前、こんなことを読んだことがあります。
東はインド北部から西は大西洋沿岸に及び、北はスカンジナビアにまで至る広い範囲が、言語学的にはインド・ヨーロッパ語族に属しており、「印欧祖語」という共通語のルーツを持つのだそうです。
サンスクリット語は、この印欧祖語に発しており、もともとインドで唱えられていた仏教の念仏も、英語との相関を見ることができます。

「南無阿弥陀仏」の「南無」は帰依するという意味で、念仏は「阿弥陀仏に帰依します」という意味になるのですが、これを英語に照らし合わせると、次のようになるそうです。
「南無」=“name”は動詞にすると「名付ける」や「名をあげる」となります。念仏の文脈のなかでは「名を唱える」となるのでしょう。
阿弥陀のミダは“meter”すなわちメーター、計ることを意味し、“a”は否定の接頭辞なので、阿弥陀は「計り知れない」となります。中国で「無量」という漢字を当てられたので、もともとの語義が生かされています。
「南無阿弥陀仏」とは、英語の語義から読み直すと「計り知れない仏の名前を唱えます」という意味になります。
いずれにしても、この念仏が、name=「名前」から始まることに、改めて気づきました。

さて、仏となった人たちの「名前」を書き終えると、死者の名前がジャバラ状につながっていました。死者の列がかたちを成しているようにも感じます。

柳田国男に『先祖の話』という著作があります。
そのなかに「自分はそのうちご先祖様になるんだ」と言って、そのことだけを頼りに生きている老人の話が出てきますが、柳田は不思議なことに、その老人を感動して見ているのです。
『先祖の話』が書かれたのは、昭和20年の4月から5月にかけてで、ちょうど東京大空襲の時期と重なります。死者を祀る人々もまた、累々と続く死者の列に加わることを、柳田自身が痛烈に感じていた時期であり、その経験が『先祖の話』を書かせたとも言えるでしょう。

過去帳を記して、昭和20年の切迫さは到底無くとも、いずれこの名前の列に加わるという具体的な感覚は、得ることができたように思います。死者の列に加わることは、同時にまだ見ぬ将来の人々とも繋がることだと感じました。


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厳父の言葉

2024-05-12 09:38:45 | 日記

恐山の住職で知られる禅僧、南直哉さんの最新エッセイ集『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)を読みました。
最近、ブラタモリ恐山の回に出演されているのを拝見しましたが、著書を読むのは、小林秀雄賞を受賞した『超越と実存』以来、久しぶりのように思います。

南直哉さんは、生まれ年は一年早くはあるものの、私が早生まれで同学年ということもあり、南さんが描く子ども時代の風景は、そのまま自分の子ども時代につながります。そのうえ南さんが繰り返し書かれる、子ども時代の死に対するこだわりも、青年期の生きづらさの煩悶も、自分の経験と重なることが多く、ついつい感情移入して著作を読んでしまうのです。

今回の著作のなかでは、南さんの父親について触れていたのが、とても印象に残りました。大正・昭和初期生まれの、あまり家庭を顧みない、いわゆる厳父に育てられた最後の世代だろうと思います。
教員でありながら、家庭では一切勉強の手助けをしなかった南さんの父親が、ある日このように言ったのだそうです。やや前後関係を調整して引用します。

「オマエな、他人が『オレはうまくいった、得をした、褒められた』というような話を聞かされて、面白いか? そんなわけないだろ? いいか、他人が面白い話は、オマエが失敗した、損をした、怒られた、酷い目にあったという話だ。だから、そういう経験を大事にしろ。ただし…
ただの苦労話は自慢話と同じだ。聞いて面白いと思うヤツは誰もいない。頼まれない限り、するな。どうしてもしなければいけない時には、全部笑い話にしろ」(前掲書143-144頁)

失敗した経験は、必ずそこに教訓があり、人に話す価値がある。身に染みる失敗の切なさは、実感の最たるものだ。けれども、その切なさを笑い話に変えるには、相応の教養が必要なのだと、南さんは述べます。失敗をも笑えるようになるには、その失敗を全く違う観点からとらえ直さねばならず、それを支えるのが教養なのだと言うのです。

本書のなかで、もうひとつ心に残ったのは「正直さ」と「孤独」という言葉です。これについても長くなりますが引用します。

私にいわせれば、「コミュ力」など要らない。というより、そんなものは幻想である。必要なのは、「この人ならば話してみよう」「この人の話ならば聞いてみよう」と相手に思わせるような、ある種の正直さである、意思疎通の土台には信頼がある。そのまた土台が正直さなのだ。
正直さは能力ではない。人間の失敗と、その失敗の反省の深さから生まれる態度である。
つまり、それは孤独から生まれる。孤独を知らない者は、正直にはなれない。(前掲書73頁)

失敗の切なさを、人に伝えることで「信頼」は生まれますが、人に伝えるためには「教養」という下地が必要です。そして深い反省で失敗をとらえ直す「正直」さこそが「教養」の母であり、それを支えるのが「孤独」という父なのだと、南さんの言葉を理解しました。

厳父というものの存在が有難いと思えるのは、ある種の覚悟によって、今まで見えなかった世界の見方を獲得できることを、身をもって示してくれることではないかと思います。南さんの父親の言葉に触れてそう感じました。


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一盌からピースフルネスを

2024-05-05 21:46:13 | 日記

裏千家の前家元、千玄室大宗匠が先月、満百一歳の誕生日を迎えられました。
いくつかのテレビ番組で特集が組まれていましたが、インタビューのなかで繰り返し話をされていたのが、厳しい戦争体験についてでした。特攻隊の生き残りとしての体験です。
「NHKアカデミア」のホームページにインタビューを起こしたものが載っていたので、いくつかをご紹介します。

裏千家の跡取りとして教育を受け、自らもそのように心構えをしていた大宗匠のもとに、召集令状が届きます。出征するときの様子を次のように語っておられます。

利休が切腹した脇差し、粟田口吉光という脇差しが私の家にあります。私は初めて出征する前の晩に、父から、三方に乗せられた利休の切腹した脇差しを見せてもらいました。父は一言も言いませんでした。私はそれを恭しくいただいて「私は切腹できるかいな」と。二度と家に帰って来られない。もう出たら戦死ですよ。死を覚悟で出て行かないといけない。父、母、兄弟、友人たち、皆に別れを告げて出ました。

海軍の飛行科に抜擢されたのち、特攻隊に配属されます。沖縄攻撃のために厳しい訓練を続けるなかで、心休まる時間は、仲間たちと茶会を催した時だったと言います。

出て行くときに、携帯用の茶箱で、お茶会を何回もしました。最後に皆が出て行って「千ちゃん、お茶にして」と。配給の羊羹で。ヤカンのお湯を持ってきて、私はお茶を点てて、みんなに飲ませました。みんながお茶をいただく。「いただきます」と言ってね。
本当に仲の良かった旗生良景という京都大学法学部出身の男が京都でしたから、私の家の前を通っていたらしい。「千やん、わしな、頼みあんねん。わしな、生きて帰ったら、お前んとこの茶室で、茶、飲ましてくれよ」と。その瞬間、「生きて帰れないんだよ。爆弾を積んで、信管を抜いて出ていった以上、帰れない」。もう何とも言えん気がしましたね。

そうやって茶会でもてなした戦友たちは、皆帰らぬ人となり、大宗匠ともう一人だけが生き残りました。

私の仲間は一緒にいた私を含めて30名。私と、あとで俳優になった日大出身の西村晃という“水戸黄門”、彼が私とペアで、私と西村だけは出撃前に待機命令で命が助かった。28名の、一緒に訓練を受け、仲が良かった各大学出身の予備士官は、皆突っ込みました。

「一盌(わん)からピースフルネスを」は大宗匠が同門に向け繰り返し説き、外国の元首たちに会うたびに熱く語っておられる言葉です。百一歳のインタビューでは、悔いることがないよう、自らに言い聞かせるように、特攻隊の経験を詳細に語っておられたのが印象的でした。

前編の動画がまだネット配信されていますので、ご興味のある方は下記サイトからご覧ください。
https://www.nhk.jp/p/ts/XW1RWRY45R/movie/


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