前回、『恐山』を引用させていただいた南直哉さんは、永平寺で修業時代に初めて上梓した著書『語る禅僧』(ちくま文庫)において、子どもの頃に「突如として目の前の景色が一変した」経験について述べています。
喘息で体の弱かった南さんは、友達と缶けりをして遊んでいても、すぐにオニになってしまい、遊びが「苦役」のように感じられていたそうです。いつものように缶けりでオニをさせられているうち、ふいに、このまま帰ってしまおうか、そうすればどんなにせいせいすることだろうと考えました。これは、ほんの思い付きだけで、実際に行動に移すわけでもなかったのですが、その考えが妙に印象に残ったのだそうです。
その帰り道、明日が母親と一緒に喘息専門の医師のところへ行く日だと思ったとたん、別のアイデアが南少年の脳裏にひらめきました。
「もし明日お母さんが、アンタを医者に連れて行くのはもういやだ、と言ったら、どうなるんだろう」「ひょっとしたら、お母さんがお母さんであるのは、誰が決めたか知らないが、ただの約束で、お母さんはそれを守っているだけではないのか」
「世界は全部約束でできていて、であるからにはそれが突然破られることもありうる、というアイデアは、このとき私の頭の中心に住みついた」と八歳の時の経験を、南さんは語っています。
しかも、それは単なるエピソードではなく、「自分自身にもこの世の物事にも、何か安心できる、確かなところが欠けている、という意味となって、ものの考え方や感じ方の中に固定してしまった」と述懐しています。
子どもが世の中のルールを学ぶときには、普通、そのルールの無根拠について思いを致すことはありません。そのような疑いを覆い隠すような二重三重の詐術によって、ようやく正常な大人になりおおせている、というのが実状だと思います。ところが、南少年は自分から、世の中の無根拠について思い至ってしまいました。
喘息の苦痛から、常に死を身近に感じる南さんにとっては、「死」もまた執拗に彼をとらえて離さないものだったといいます。小動物を殺してみてもわからない、祖父の死の有様を克明に観察してもわからない、「この私が」死ぬということの実感が、どうしてもわからないのです。
禅僧になった南さんは、徹底しておのれの悟りを言語化しようと努めます。言語化してそこに固着させるのではなく、それ自体が絶えざる運動であるような悟りを目指すために、里程標としての言語化を試みます。
したがって次のような一節を読むとき、私たちはある種の覚悟を強いられるのを感じます。
他者との関係の中で織り出されてくる社会的な役割としての「私」、それを「私」と口に出して言い、その言葉に意味を感じているというそのこと-ここに生じているズレ、このズレが引き起こす「今の私は本当の私ではない」という疼痛のごとき苛立ちに耐えていくこと、それが私がいるということである。
これは確かに身もフタもない言い方だ。しかし、ここをごまかして、「私とは何か」という問いにこだわったまま、「私とは霊」だの「私とは脳」だのと、結局その類の答えで強引にズレにカタをつけようとするのは、無理が過ぎると私は思う。
ズレるという事実が教える「私」の無根拠さを覚悟して、それが成り立つ条件を明瞭に見極め、しかる後に他者との関係から次の「私」をもう一度手作りしていくこと、この反復によって自己という「行儀」「振る舞い」を充実し続けること、それが自己をならって自己を忘れることである(『語る禅僧』214頁)。
疼痛のごとき苛立ちは、文字通り「苛立ち」であって、「わかった、悟った」と思った瞬間に、雲散霧消するものです。一回で終わる悟りは錯覚に過ぎない、ズレている感覚に耐えながら悟り続けることが修行なのだ、そう南さんは語ります。私たちは多かれ少なかれ、同じような苛立ちを抱えて生きている限り、一歩を踏み出すための心構えとして受け取るべき言葉だと思います。