2人1組、一客一亭の変則的なお茶の稽古も、1か月が経過すると、だいぶ慣れてきました。
稽古再開の時には、マスクをしていることを忘れてしまい、茶碗を口元に運んで初めて、マスクを外さなければならないことに気付くという失敗は「しょっ中」でしたが、それももう殆ど無くなっています。
客は点てていただいたお茶を、自席の畳の縁内に取り込んで、おもむろに懐紙を横に置き、外したマスクをその上に置いたうえで、改めて茶碗を捧げ持ってお茶を頂く、という一連の動作が滞りなく進むようになりました。師匠の指導による作法ではないのですが、おそらく最も手速くかつ衛生的な手順なので、まるで利休の昔からそうであったかのように、稽古の共通動作となっています。これも「新しい生活様式」の産物のひとつでしょうか。
今年中に予定されていたお茶会などの行事ごとはすべて中止となり、今年はただひたすらに社中の稽古に打ち込むことになります。そう言えば、コロナ禍とともに始まった年も、もう夏至を迎えました。
夏至の日に、必ず思い起こす歌がこれです。
一日が過ぎれば一日減ってゆく君との時間 もうすぐ夏至だ (永田和宏『夏・二〇一〇』)
詠み手の妻、河野裕子さんに乳癌の転移が見つかり、この一首を詠んだときには、もう抗癌剤も効かなくなり始めていました。このときの心境を、永田さんは次のように語っています。
できるだけ一緒にいたい。いま一緒にいられる時間を大切にしたい。楽しく過ごしたい。しかし、それが楽しければ楽しいだけ、残された時間が一日ごとに減っていくというのを痛切に感じざるを得ません。引き算の時間の残酷さ。夏至までの昼の時間は伸びていくのに、「もうすぐ夏至」。あとは時間は短くなるばかり。(『人生の節目で読んでほしい短歌』NHK 出版新書 202頁)
同じ歌人として、同じ時間を濃密に共有していた永田さんにとって、伴侶との時間が確実に減っていくことは、ご本人も述懐されているように「二人で共有した時間を強引に捥ぎ取られてしまう」苦しみだったと思います。時間を共有することは、あとからディテールを思い返すという共同作業によって成立するのだ、とも永田さんは述べています。
稽古に不自由を感じたり、お茶会独特の気の張りや充実感を味わえなくなることを、くよくよ考えていても始まりません。マスク越しにお茶を頂こうとして思わず吹き出しそうになったり、マスクをあわてて外そうとして眼鏡を飛ばしそうになったりと、普段は見られない姿を、いつか思い返して笑い合える時間を共有していることを、今は「有難い」と考えるべきだと思います。「一期一会」が茶会の醍醐味ならば、パンデミックをものともせず、稽古に集うことにまさる「一期一会」は、他にあるだろうかとも思います。
コロナ禍のひとつの効用は、わたしたちに「時間」との関わり方を、仕切り直させてくれたことではないでしょうか。
永田さんにとって残された時間は残酷に減っていくとともに、限りなく愛おしいものであったはずです。不自由な環境で共有する時間は、もう二度と繰り返されることのない、かけがえのない「今」です。ルーティンワークのような日常生活が、ずっと続くという錯覚から最も遠いところに、この今があるように思います。