『無門関』という禅問答集に、有名な「主人公」の話が出てきます。
瑞巌和尚という人は、毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、また自分で「はい」と返事をしていました。「はっきりと目を醒ましていろよ」「はい」「これから先も人に騙されないようにな」「はい、はい」というように、毎日ひとり言をいっていたというのです。
主人公とは、「本当の自分」とか「真の自己」という意味にとられ、この逸話は様々に解釈されています。
日々様々な刺激に取り囲まれている私たちは、本当の自分というものをとかく見失いがちだ。そこで、いつも主体的な自分というものを、はっきりと自覚し、覚醒しなければならない、というのがオーソドックスな解釈でしょう。
もう一捻りして、呼びかける今の自分の他に、本当の自分など存在しない。「本当の自分」などをことさらに区別して、それに執着することがあってはならない、それこそが「騙されるな」の意味するところなのだ、という解釈も成り立ちます。
環境の変化に振り回される自分を、そんなものは幻想であると指摘する「本当の自分」を立てる。いや、そのような「本当の自分」を言い立てること自体が幻想だと考える。この手の話を繰り返しても、「自分」から出発する限り、ループにはまり込んだような議論にしかならないのだと思います。
南直哉さんの次のような解釈に、そのループから脱出する魅力を感じます。
私が考えるのは、自己とはその存在の構造として、対話的であるということです。「主人公」とは《呼びかけられ・返事をする》ような構造のことなのです。自己が始まるのは、自己でない誰かの呼びかけに「はい」と言ったときです。私は、およそ倫理的なるものは、この「はい」に発すると思います。もし、自己が自己自体から始まるなら、およそ、倫理はいらないでしょう。(『刺さる言葉』南直哉著 筑摩書房 180頁)
自我が目覚め始めた頃、一人の部屋で自分の名前を自分で呼びかけると、思わず背筋が伸びるような、それでいて気味が悪いような不思議な感覚に捉えられたことがあります。それは、私ではない誰かの呼びかけとしてとらえない限り、味わうことのない奇妙な感覚でした。これに「はい」と応えていたならば、その奇妙な背中のゾクゾクするような感覚は、いや増しに増していたことでしょう。
瑞巌和尚がつねにこの奇妙な感覚を意識しながら独り言をいっていたのだと想像してみると、「自分」に閉じこもることなく、無理にでも「より開けたところ」へ身を置こうとしていた和尚の姿を、ありありと思い描くことができます。