宮沢賢治は、明治29年(1896年)明治三陸地震・大津波があった年に生まれ、昭和8年(1933年)昭和三陸地震・大津波の年に亡くなっています。ちょうど二度の三陸地震・大津波に挟まれるようにして生涯を終えたことになります。
晩年の三陸津波による壊滅的な被害については、その状況を目の当たりにした心情をはがきに綴ったものが残されています。また、関東大震災の翌年から書き始められた『銀河鉄道の夜』の原稿の裏には、東京の友人への震災の見舞い文の草稿が残っています。
『宮沢賢治 銀河鉄道の夜』(NHK出版)でロジャー ・パルバースさんは、それにもかかわらず、賢治が作品の中で当時の震災や津波について、いっさい触れていないことに注目しています。小説家であり賢治作品の英訳者でもあるパルバースさんによると、小説を理解するためには、作中に「何が出てこないか」を考えるべきだとして、次のように結論づけます。
賢治にとって何万人の死亡者であるとか、何百万トンのガレキであるとかいうことについては、その規模が大きすぎるために消化できない、つまり「分からない」のだと。ひとりひとりの大きな悲しみが痛恨に堪えない、ひとりの悲しみで精一杯だったのではないか、というのです。同時に、その悲しみに向かい合うために、「自分の体を使って」何ができるのかを問うことが、賢治にとって書くということに他ならなかったのではないか、というのです。
『銀河鉄道の夜』には、タイタニック号の遭難者と思われる、幼い姉弟と若い家庭教師が登場します。彼らは救命ボートに乗るためにひとを押しのけることをせず、死んでいった犠牲者たちです。
賢治はこの犠牲者の少女に「サソリの赤い火」の話をさせます。
むかしバルドラの野原に小さな虫などを殺して食べていたサソリがいた。ある日、イタチにおそわれたサソリは懸命に逃げたものの、井戸に落ちてしまった。虚しく消えてゆくわが命を省みて、サソリはなぜ潔くイタチに食べられてしまわなかったのだろうと嘆きます。そして次のように神に祈るのです。
「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。」
そうすると、サソリの体は真っ赤な明るい火になって夜の闇を照らしていた、そして、今でも照らし続けている、という話です。
この話をした直後、幼い姉弟たちは大きな十字架の輝くサウザンクロス駅で下車してゆきます。
賢治はサソリの赤い火に照らされた銀河の情景を次のように描写しています。
川の向う岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。
無念のうちに死んだ人々に対する、賢治の祈りの声が聞こえるような静かで厳かな光景です。「ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔ったようになってその火は燃えているのでした」こう形容されるサソリの火は、賢治の低い祈りの声とともに揺れているようです。
パルバースさんは、宮沢賢治は21世紀の作家だと言います。1896年に生まれ、その放った光が百光年かけて、ようやく現代にたどり着くような、たぐいまれな光を放つ作家なのだと。