11月に入ると、茶人のお正月と言われる「炉開き」で、稽古が始まります。
畳の上に置いていた「風炉」をしまって、畳に切られた「炉」に炭をくべ、そこでお点前をするようになるのです。正装した社中がそろって「炉開きおめでとうございます」と師匠に挨拶し、師匠はぜんざいを振る舞って華やかな雰囲気に包まれます。
床には「開門落葉多(門を開けば落葉多し)」の掛け軸が掛けられています。
唐代の詩僧・無可上人の詩の一節で、次のような対句の後半です。
聴雨寒更盡 雨を聴いて寒更尽き
開門落葉多 門を開けば落葉多し
軒端をたたく音が草庵で夜更を過ごす侘しさを増し、夜具を通しても冷えびえとした空気が身に染みます。雨はつい先日までの暑さの名残を洗い流して、これから長く続く深い静寂の世界に連れて行くようです。
ところが、夜が明けて庭の潜り戸を開けてみると、一面に落葉が敷き詰められている様子が目に飛び込んできます。雨音とばかり思い込んでいた夜更の音は、実は秋風に吹かれて舞い落ちる落ち葉の音だったのです。
目の前の一面の落葉は、まぎれもなく現実の姿なのですが、昨夜寒さのなかで侘しく聞いた雨音のほうが現実で、色鮮やかな落葉の景色はまるで幻のように眼前に広がっています。気紛れで大きな災をもたらす自然は、いっぽうでどこまでも慈悲深く、驚きとともに私たちに贈り物を届けてくれるのです。
紀貫之はこの詩をもとにして、次の歌を詠みました。
秋の夜に雨ときこえて降るものは風にしたがふ紅葉なりけり(拾遺集)
不遇の晩年を送った紀貫之には、秋雨はいっそう侘しさを誘ったことでしょう。みずからを励ますように「風にしたがふ紅葉」の華やかさを対比したのではないでしょうか。
草木が逞しく生茂る季節が終わりましたが、それは新しい季節の始まりでもあります。新しい季節に向かう私たちに、自然は相応しい装いで迎えてくれます。
紅葉はとても綺麗ですが
どこかもの悲しさもありますね~
人間に例えると、最後に鮮やかな色に染まり
そして枯れ落ちていくそんな感じからもそう思うのかも。
葉はやがて土となり春にはまた新緑になりそれが繰り返される
燈々代々
土台となる木は永遠に生きていく(実際は木もいつかは枯れていきますが)
木は人間の魂のようなものかもしれません。