宮沢賢治は、明治29年(1896年)と昭和8年(1933年)の2度の三陸地震・大津波に挟まれるようにして生涯を終えています。
小説家のロジャー・パルバースさんは『宮沢賢治 銀河鉄道の夜』(NHK出版)で、それにもかかわらず賢治が作品のなかで当時の震災や津波について、いっさい触れていないことに注目しています。作中に「何が出てこないか」を考えることで、むしろ賢治が何を重視していたかが浮き彫りにされるのだと説きます。
想像を絶する被害、苦しみの全体を取り纏めて救済の対象とする。賢治にとって「書く」ということは、そういう観念的なことではなく、ひとりの悲しみに向かい合うために「自分の体を使って」何ができるのかを具体的に問うことではないか、そうパルバースさんは言います。
賢治の亡くなる昭和8年に生涯2度目の地震・大津波が訪れますが、その前年昭和7年に、賢治は『グスコーブドリの伝記』を「児童文学」に発表しています。
旱魃や稲熱病による飢餓のために一家離散となり様々な遍歴を経たブドリは、偶然のようにクーボー大博士と火山局技師のペンネンナームに出会います。農民を悩ます旱魃や冷害などの対策のために、火山を工作して降水量を調節したり、噴火を小出しに調節したりする火山コントロールに成功したブドリたちは、農民たちから大いに感謝されることになります。
ブドリは、ある冷夏の年に、空気中の炭酸ガスを増やして気温を上げるため、カルボナード火山島を噴火させることを思いつきますが、その作動スイッチを押す人間は、火山島に残って死ぬしかありません。
老境に達した自分がその役割を担うと言うペンネン技師を説得して、ブドリは自らボタンを押す役割を果たすのでした。
ブドリの勇ましい自己犠牲の姿には、法華経の説く菩薩行が語られているようにも見えます。
農民の苦しみをひとりで背負って犠牲になるブドリの英雄譚の様にも読め、パルバースさんの言う「賢治が敢えて書かなかったこと」が書かれている様にも読めます。
しかし、賢治は誰と誰の関係において「救済」を書こうとしたのか、そう読み直すことで違う側面が見えてくるように思います。
ブドリの両親は旱魃による飢餓から脱出するために、相次いで山に入り行方不明になりました。いわばブドリは被災遺児として「救われずに残った者」として最初から登場しています。
救われずに残ったブドリは、農民たちの救済のために立ち上がりますが、それは火山コントロールという途方もない手段を使ってのことです。神の領域に立ち入ることで、自らに災厄をもたらした神を征服しようとしたと言ってもよいかもしれません。賢治は当然、そのようなブドリを英雄として描き切ることはできませんでした。
この辺りの微妙な消息を、玄侑宗久さんは著書『風流ここに至れり』(幻戯書房)で明らかにしています。
「産業組合青年会」のなかで、賢治は「祀られざるも神には神の身土がある」と書いた。冷害や旱魃を起こし、時には地震や津波など、完膚無きまでに人間を苦しめるのも神だとするなら、そんな神を祀る気にはなれない。しかし、それでも、やはり神は神だ、ということなのだろう。その神への生け贄のように、賢治はブドリを死なせたのである。(前掲書 97頁)
『グスコーブドリの伝記』はブドリの農民に対する救済の話ではなく、救済されなかったブドリと救済しなかった神との話ととらえることができるかもしれません。
そうとらえてみると、ブドリのペンネン技師を説得する、次の台詞も別の色合いを帯びてきます。
「私のようなものは、これからたくさんできます。私よりもっともっとなんでもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから。」
ブドリは神への無謀な闘いを挑んだ罪を償うかのように死んで行きますが、そうやって守ろうとしたものは、郷土の目覚ましい発展などではなく「仕事をしたり笑ったり」する、人々がよく生きる具体的な社会でした。
東日本大震災の直後に、気仙沼市階上中学校で読まれた卒業生の答辞を思い出します。
15歳の少年は震災は「天が与えた試練というには惨すぎるものでした」と声を詰まらせたあと、続けてこう述べるのでした。
「しかし苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え助け合って生きていくことが、これからの私達の使命です。」
我々にはどうしようもない限界があるけれども、それでも「よりよく生きよう」という、清々しい覚悟が伝わってきます。晩年病床にあった賢治にとって「仕事をしたり笑ったり」する生活は、よりよく生きることの具体的な姿だったのだと思います。