先日の母の日、15年前に亡くなった母の本棚を整理していると『キジバトの記』(海鳥社)という本が出てきました。上野晴子という著者名を見てもピンとこなかったのですが、本の帯に「〈筑豊文庫〉三十年の照る日、曇る日」とあるのを見つけて、思わず姿勢を正しました。
筑豊の炭鉱を舞台とした記録文学作家、上野英信とともに「筑豊文庫」を支え続けたのが上野晴子さんです。
母が、どうやってこの本にたどり着いたのか、今としては知るよしもありません。昨年秋、コロナ禍の一休止の時期に、満を持して直方市立図書館にある「筑豊文庫資料室」を訪ねたばかりだったので、思わぬかたちで冥界の母に接したようでもあり、しばし感慨に耽ることになりました。
上野英信は関東軍に入隊し、将校として配属された広島で被爆しました。戦後復員して京都大学に編入しますが、中退し出奔するように筑豊の炭鉱労働者になります。公安や福祉事務所の手先ではないかと疑われながら、廃坑集落の住民の悩みを聞き、励まし、叱り、共に泣いて、地域に受け入れられた人でした。私はこれを葉室麟のエッセイ集『曙光を旅する』(朝日新聞出版)で知り、『追われゆく鉱夫たち』(岩波新書)など上野英信の一連の著作を読みました。それから、ずっと筑豊文庫の資料を展示している直方私立図書館を訪ねたいと思っていました。
昨年ようやく「筑豊文庫資料室」を訪れたことを当ブログに記すと、筑豊の『無名通信』(森崎和江が創刊した女性のための雑誌)に参加された経験を、遅生さんがご自身のブログに思い出話として紹介してくれました。社会の底辺にある人に手を差し伸べていたはずの運動が、高邁な理想を実現するために、女性ひとりひとりの自立よりも組織を優先せざるを得なかったことなど、その記事で教えてもらいました。
『キジバトの記』は、亡き夫とその志への尊敬の気持ちに満ちた美しい本です。著者没後に、ご子息の上野朱さんが遺稿を出版したものですが、その端正な文章は、熟達の作家の風格を漂わせています。これは若いころ短歌会「形成」の同人として作歌に励んだときから培われた筆力なのでしょう。「形成」は白秋の創刊した短歌雑誌『多磨』が戦後解散して、誕生した結社のうちのひとつなのだそうです。ところが、上野英信は結婚すると妻の作歌を禁じます。「文学の毒が君の総身に回っている」と言って。
上野英信を尊敬する者として、これはとても辛い事実です。晴子さんもどんなにか無念だったことかと思います。しかし、同志としての固い絆で結ばれていた妻の次のくだりを読むと、ほっとしてしまいます。そしてしばらくの間考えさせられるのです。
妻の視覚は偏りやすい。私は自分の心を制御して夫を師として見做すように努めた。自然な夫婦の有りようからはますます遠くなったけれども、この切り替えは私に一種の自浄作用をもたらした。
師として仰げば、彼ほど多くのものを与え得る人は稀であろう。人間の最も基本的な姿勢を彼は自らの生き方によって示した。深い苦しみや悲しみの中にいて、自由に生きることのできる人だった。(73頁)
上野晴子が自身で語るように、理不尽な夫を文字どおり仰ぎみるだけの人ならば、おそらく魅力を感じないでしょう。しかし、次のくだりはどうでしょうか。
英信の作品の中で私が惜しいと思う部分は登場人物の会話のぎこちなさにある。語られる内容ではなく、語る人の息づかいがどれも一律なのだ。そして方言の処理がまずい。長年筑豊にいて多くの人に接しながら、性格や年齢や身分の違い等がどうして書き分けられなかったのかと考えてみると、それは曾て私たちの方言を理解しなかったことと無関係ではないことに気付く。(67頁)
夫の原稿を最初に読んで意見を求められた晴子さんは、褒めることから始めたと書いています。けれども、気分が高まれば、上記のようなことをそのまま言って、激しい夫婦喧嘩をしたのではないか、などと想像してしまいます。これならば、同志の姿に違いありません。
高橋和巳が『邪宗門』執筆のために、炭坑の坑内を見たいというので、坑内見学を準備したエピソードなども載せられていて、晴子さんは物書きのうち「とりわけ高橋和巳さんにはお会いできてよかったと思う」と述懐しています。母の日に母から贅沢すぎる贈り物を受け取ったように感じました。