人生は「苦」だという仏教の考え方は、ヨーロッパ人には受け入れがたく、最初に仏教がヨーロッパに入ってきた時には厭世的な恐怖主義だということで、大変に嫌われたそうです。
「苦」という言葉にはインパクトがありますが、その語の迫力のために本来意味するところを正確に伝えきれない面もあると思います。
もともと仏教の四苦の概念を「苦」という語に訳したのは中国人であって、サンスクリットの言葉では「思うにまかせぬこと」といった意味を含んでいるのだといいます。「生」も「老」も「病」も「死」もすべてが「思うにまかせない」のだという認識は、われわれの日常生活での実感でもあり、スッと腑に落ちるように理解できるような気がします。
思うままにならないのが人生だ、この世に生まれてくる条件からして不自由かつ不平等なのだ。これがブッダの認識の出発点であり、思うままにならない人生を黙って耐えて生きてゆく、その「生き続ける」ことに人生の最大の意味を感じるのが仏教の根本的な考え方だと思います。
五木寛之さんの『大河の一滴』などのエッセイにはこのあたりのことが丁寧に書かれています。
「ただ生き続ける」ことがどんなに偉大なことなのか、『大河の一滴』に印象的な記述があります。アメリカのアイオワ州立大学の生物学者ディットマー博士が行った、小さな木箱にライ麦の苗を植えて4か月の成長を見るというものです。以下、引用させて頂きます。
その貧弱なライ麦の苗を数カ月生かし、それをささえるために、いったいどれほどの長さの根が30センチ四方、深さ56センチの木箱の砂のなかに張りめぐらされていたか、ということを物理的に計測するのです。目に見える根の部分は全部ものさしで測って、足していきます。根の先には根毛とかいう目に見えないじつに細かなものがたくさん生えているのですが、そういうものは顕微鏡で細かく調べ、その長さもみんな調査して、それを足していく。(中略)
なんと、その根の長さの総計、総延長数は1万1千2百キロメートルに達したというのです。1万1千2百キロメートル、これはシベリア鉄道の1.5倍ぐらいになります。 一本の麦が数カ月、自分の命をかろうじてささえる。そのためびっしりと木箱の砂のなかに1万1千2百キロメートルの根を細かく張りめぐらし、そこから日々、水とかカリ分とか窒素とかリン酸その他の養分を休みなく努力して吸いあげながら、それによってようやく一本の貧弱なライ麦の苗がそこに命をながらえる。
命をささえるというのは、じつにそのような大変な営みなのです。そうだとすれば、そこに育った、たいした実もついていない、色つやもそんなによくないであろう貧弱なライ麦の苗に対して、おまえ、実が少ないじゃないかとか、背丈が低いじゃないかとか、色つやもよくないじゃないかとか、非難したり悪口を言ったりする気にはなれません。(『大河の一滴』幻冬舎文庫)
人間の値打ちというのは、とにかく生き続けて今日まで生きているということであって、その人間が何事かを成し遂げてきたかという「人生の収支決算」は二番目くらいに考えてよいのではないか、そう五木さんは語ります。
人生は「思うにまかせない」不自由なものかもしれない。しかし、その不自由にこだわる小さな心をはるかに凌駕する、大きなはたらきに「生」は支えられているのだということを、つくづくと感じさせる話です。