精神科医・名越康文さんの本のタイトルの多くは、いわゆる実用ハウツー本のそれに近いため、実際に手にとって読んでみるまでは、その真価に気付かないことがあります。
『自分を支える心の技法 対人関係を変える9つのレッスン』(医学書院)もそのひとつではないかと思います。
本書は医療従事者に対する講演録に大幅に手を加えて、一般向けの書籍にしたものです。そのため、読者(講演の聴衆)が日常的にストレスフルな環境にさらされていることを前提にしており、そのような読者(聴衆)の心にダイレクトに響くような語り口になっています。
本書では「怒り」が、いかに人の心を浸食しやすく、疲弊させるかを説き、そこからの脱却を目指すための具体的な方策が記されています。
わが国には、「祟る神」によって神格を高められているような神様の例がたくさんあり、その怒りが解離的(文脈から離れて突然怒り出すこと)、暴力的であればあるほど、その存在を敬い、自らの庇護者として取り込もうという民衆の精神の地層のようなものがあります。
名越さんはこれを「怒りに甘い」文化として批判します。
ブログとかツイッターの炎上、あるいは口論を見てもそうです。文脈を超えて、過剰に怒っている人のほうが支持を得る、ということが往々にして起きる。冷静な議論よりも、怒っている人、感情的な人のほうが場の空気を支配してしまう傾向がある。
この背景にはやはり、僕らが文化的に、解離的な方を好んできたし、許容してきたということがあるんだと思います。(56頁)
この怒りの「古層」にたどりつくために、名越さんは生まれて間もなくから3年程の間の乳幼児期のコミュニケーションにさかのぼります。私たちは人生の最初に、怒り、泣きわめくことで、おむつが濡れたり、ひもじかったり、暑かったり寒かったりするたびに、その不快を除去することを学びます。非常に自分勝手な問題の多いコミュニケーションがまず、われわれの人格形成の古層にあるわけです。
さらに問題なのは、その怒りをぶつける相手が、自分を一番心配してくれ、命に代えても守ってくれる庇護者である母親であるということです。
つまり僕らは生まれてから2,3年の間に「自分にとってもっとも大切な相手に対して、もっとも激しい怒りをぶつけ、それによって不快を除去してもらう」というコミュニケーションパターンを繰り返し刷り込むことによって、心を形成してきたんです。そう考えると、僕ら人間は、なんと不幸な生い立ちを持っているのかと思わないでしょうか。僕たちは、もっとも自分のことを気遣ってくれる人に、もっとも感情的な怒りをぶつけてしまうことを宿命づけられた存在なんです。(42頁)
われわれの人格形成の最初に、このような誤りがあるのですから、それは事あるごとに頭をもたげ、心を占領してしまうのは無理もないことなのかもしれません。しかし、そのことにじゅうぶん自覚的であり、「怒り」を取り除く心構えを日々積んでゆくことで、いくらかでもその重力から逃れることは可能です。
そこで、名越さんは仏教の教えに込められた、精神医学上のすぐれた知見に注目します。
仏教では怒りを「瞋(しん)」と表現します。これに欲深さを表す「貧(とん)」と無知であることを表す「痴(ち)」をあわせた3つを人間が克服すべき煩悩であると、仏教ではとらえます。しかも、この3つの煩悩は互いに影響を与え合っています。
このうち、「貧」と「瞋」の関係について説明するために、名越さんが紹介するエピソードには、深く考えさせられます。
僕の友人に、三十代でがんで亡くなった医師がいます。肝臓がんで、だんだん腹水がたまってくるところまできた。その彼に、僕が見舞いに行ったあるとき「何が一番しんどい?」と聞いたんです。そうすると、「新しい治療法があって“これやってみないか”と言われたときが一番しんどい」と言うんです。どういうことか。死ぬことを受け入れて、残り少ない人生をまっとうしようという、すごく静かな心になっていても、「これやってみるといいかもしれないよ」と勧められると、どうしたって欲が出る。欲が出ると心が乱れる。心が乱れると怒りがわいてくる、ということを、おそらく彼は言いたかったのだと思います。(83頁)
希望を持つということすら「貧」に陥りかねず、それが「瞋」を引き起こすというのです。
冒頭に述べたように、本書は医療の現場でのっぴきならない関係に立たされる医療従事者に向けて語られた講演をベースにしています。それゆえ、「瞋」の取り除き方についての記述も臨床的ですらあり、われわれを実践へと導いてくれます。