犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

カスタニエンの樹

2010-10-13 22:49:12 | 日記
 

ユダヤ人としてアウシュヴィッツに囚われ、奇跡的に生還した心理学者V.E.フランクルによる『夜と霧』に、ひときわ輝きを放つ次のような一節があります。

この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘らず、私と語ったとき、彼女は快活であった。「私をこんなにひどい目に遭わせてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」と言葉通りに彼女は言った。(中略)
外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蝋燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。彼女は譫言状態で幻覚を起こしているのだろうか?不思議に思って私は彼女に訊いた「樹はあなたに何か返事をしましたか?―しましたって!―では何て樹は言ったのですか?」彼女は答えた。「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる―私は―ここに―いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ。」

フランクル博士は「感傷的な映画作品よりも遥かに偉大なことをその生涯において実現化した収容所のある人々」という表現を用いて、このエピソードを紹介しています。

やがて死ぬ若い女性が「永遠のいのち」と対話しつつ、死に臨んで快活であったこと。そして彼女と同じように死に臨んでいたアウシュヴィッツの囚人たちに、たとえ救われなくてもより良く生きようという力を与えてくれたこと。博士はこれらのことを指して「偉大なこと」と称えるのです。


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だれかのためにお茶をいれる

2010-10-11 09:23:42 | 日記

哲学者の鷲田清一さんが著書『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)で引用されている精神科医ロナルド・D・レインの『自己と他者』に次のような一節があります。

ある看護婦が、ひとりの、いくらか緊張病がかった破瓜型分裂病者の世話をしていた。彼らが顔を合わせてしばらくしてから、看護婦は患者に一杯のお茶を与えた。この慢性の精神病患者は、お茶を飲みながら、こういった。〈だれかがわたしに一杯のお茶をくださったなんて、これが生まれてはじめてです〉。

鷲田さんは次のように解説を加えます。

だれだってだれかのためにお茶をいれることはできる。しかしそれが、求められたからでなく、業務としてでもなく、もちろん茶碗を自慢するためでもなくて、「だれかのため」「なにかのため」という意識がまったくなしに、ただあるひとに一杯のお茶を供することにあって、そしてそれ以上でも以下でもないという事実は、それほどありふれたものではない。レインの患者はその事実に胸を熱くしたのである。(前掲著 107頁)

「ひとのためになにかをしてあげる」という意識にかすめとられることなく、ひとのためになにかをなしうる希有な瞬間、希有な関係に立ち至ったとき、ひとは感動します。
鷲田さんによれば、あるひとのためになにかを「してあげる」という意識のなかでは、自分と他者とは「ほどこすひと」「ほどこされるひと」とに転位され、それぞれが取り替えのきかない個別性を失って、匿名化してしまいます。
そう考えると、匿名化される前の「わたし」とは、お茶をいれてあげたり、いれてもらったりする、ただそれだけの関係によってようやく想い起こされるのだ、と言い換えることができるでしょう。レインの患者が特別に不幸だったのでもなく、わたしを、取り替えのきかない「わたし」にしてくれる、そういう「他者」が姿を見せるのは、鷲田さんの言うように「それほどありふれたことではない」のです。

レインの患者が、その他者との関係に身を置いて「稀有な瞬間」と感じたというのは、決して大げさなことではありません。お茶をいれるというそれだけのことだからこそ、取り替えのきかない「わたし」というものが立ち現れる瞬間を、鮮やかに感じさせたのだと思います。


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謙虚であること

2010-10-09 03:11:49 | 日記

   I believe the first test of a truly great man is his humility. I do not mean by humility, doubt of his own power, or hesitation of speaking his opinions; but a right understanding of the relation between what he can do and say, and the rest of the world's sayings and doings. All great men not only know their business, but usually know that they know it; and are not only right in their main opinions, but they are right in them; only they do not think much of themselves on that account.


鶴見俊輔さんは、あるとき古在由重さんに、大山巌元帥についてこう尋ねたそうです。
「古在さんは、子どものときに、大山元帥に抱かれたことがあるそうですね。」

すると古在由重さんはこう答えたそうです。
「ほんとうはもっとおもしろいんだ。沼津の裏山で小学生のぼくがひとりで遊んでいると、向こうからふとった人が歩いてきた。写真で見たことがある大山元帥だと思って、おじぎをした。すると、大山さんも立ち止まって、きちんとおじぎを返した。他に見ている人が誰もいないのに。」

また、大山元帥の伝記のなかの息子の回想録によると、「総司令官てなにをするんですか」という問いに、「知っていることでも、知らんようにきくことよ」という答えが返ってきたそうです。

これも鶴見俊輔さんの『思い出袋』に載っているはなしです。


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あなたを誇りに思う

2010-10-08 08:58:14 | 日記

  “He abused me, he laughed at me, he struck me.” Thus one thinks and so long as one retains such thoughts one's anger continues.
  Anger will never disappear so long as there are thoughts of resentment in the mind. Anger will disappear just as soon as thoughts of resentment are forgotten.


哲学者の鶴見俊輔さんは著書『思い出袋』(岩波新書)に、知っているけれどわざと使わない言葉がある、として次のように述べておられます。
「20歳以降、日本に帰ってからの長い年月、「あなたを誇りに思う」などと私に向かって言う人はいなかったし、私から他人に向かって言ったこともない。記憶にない。でもそう言いたいと思うことはあった。」

そしてそのうちの一回について、次のように語っています。
「もう一度は、松本サリン事件で最初に容疑者とされた河野義行が、自分の無実を警察に対して主張し、自分の妻がサリンのために昏睡状態となり、その状態の続く中で、オウム真理教団に対して破防法が適用されることに反対したとき。こういう人が日本人のなかにいることを、同じ日本人として誇りに思った。」

河野さんは、死刑囚となったオウム信者と今も交流を続けておられ、ある元信者には自宅の鍵まで託されて、庭の手入れを任されているそうです。また、長野県警の幹部とも親しい交流を保っておられるともいわれます。

悔悛の情を示し別人格になったことをもって人を赦すのではない、そのようなものとは全く違う、圧倒的な赦しの意思が、ここにはあります。自分にはとうていできないかもしれないけれども、この人がいてくれるおかげで、自分も真似てみることくらいはできるかもしれない。そう思ったとき「あなたを誇りに思う」という言葉が口をついて出てくるのでしょう。

コメント (1)
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花が咲くとき

2010-10-02 22:23:25 | 日記

 Blossoms come about because of a series of conditions that lead up to their blooming.
 Leaves are blown away because a series of conditions lead up to it. Blossoms do not appear independently, nor does a leaf fall of itself, out of its season. So everything has its coming forth and passing away; nothing can be independent without any change.

小泉今日子さんは、恩師のように慕っていた久世光彦さんからもらった最後の手紙に「最近のあなたは、演技でも文章でもすごく上手になってびっくりしているけど、うまいの先にそんなに素敵なことはありません」と書かれてあった文章が、いつも頭から離れなのだそうです。

昨日までの自分と決別させる何か啓示のようなものがあって、はじめて花が咲くための条件が整うのではないでしょうか。

ときを過たずに導いてくれる良き師の存在、それを素直に聞き入れる魂の柔軟さ。葉を落とし、花を咲かせる条件とは、決してあたりまえに存在するものではないことも、忘れてはならないことです。


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