社中の初釜に出席しました。
床の間には「好日」の軸が掛けられています。
年末に師匠が体調を崩され、初釜の練習もそこそこに、水屋担当はぶっつけ本番で臨んだのですが、それでも師匠の健康が回復され、社中の皆が元気に顔を合わせることができたことは「好き日」に違いありません。
「好日」や「日々是好日」は、「何はともあれ、よき日にしよう」という励ましの声のように聞こえて、私の好きな言葉です。
「日々是好日」の出典は『碧巌録』で、そのなかの次のような問答に出てきます。
あるとき雲門禅師が修行僧に向かって「これまでのことは訊かないが、これから先のことを一句言ってみよ」と問いました。しかし、誰も答える者がいなかったので、禅師自ら「日々是好日」と答えたのだそうです。
禅師の教えをさらに噛み砕き、敷衍して言うとこうなります。「好日」か「不好日」かの区別には意味はなく、そのような区別は「自分」にとっての損得勘定にとらわれているに過ぎない。昨日まではそうだったかもしれないが、今日この日から「自分」というものから自由になって、日々を分け隔てなく迎えなければならない、というのが雲門禅師の教えでした。
さて、二年前大病をした妻は、去年から淡交会支部の研究会で点前を任せられるほどに元気になり、今年の初釜では薄茶の点前を担当させていただきました。去年の初釜を欠席したことを考えると驚くほどの快復です。
これまでの苦労を重ね合わせながら、こう感じることができたのも、しみじみと「好日」なのだと思います。
初釜に出席した社中のそれぞれの胸中にも、嬉しいこと辛いことが複雑に絡み合っているのでしょう。そのひとりひとりにとって「好き日であれ」と祈ります。茶会の席に「好日」の軸を掲げるのは、せっかく茶席に集った人々が共有すべきテーマであり、そうであれば「ああ、よい日だ」という述懐ではなく、「好き日であれ」という祈りへとつながるべき言葉なのではないでしょうか。
そうしているうちに「好き日にしよう」という決意が湧き出るように感じるならば、損得勘定の「自分」というものから、少しでも自由になった証なのだと思います。