われわれは「心」を「自分」とイコールで考えようとします。ふだん気がつかないけれども、常に変わらぬ自分を支えてくれるようなもの、「心」をそういうものとしてイメージするかもしれません。ところが、どうしようもない過去について思い煩ったり、制御することのできない未来について恐れたり、という非常に厄介な「心」の働きがいかに自分を不自由にしているかということも、われわれは経験的に知っています。
精神科医の名越康文さんは、心は自分ではないと言います。そうではなく「4頭立ての馬車」に例えた方がよいと。つまり「心」とは対象としてとらえて、常に点検・整備しておくべきものだというのです。点検を忘れると、一瞬にして平和と安定を破壊する恐ろしい暴れ馬なのだと忠告します。
4頭のそれぞれに意識があり、右に進もうとするもの、左に曲がるもの、猛然と突き進むものもあれば、急に立ち止まるものもいる、それが心なのだと名越さんは言います。
このイメージで大切なのは、われわれはこの暴れ馬ではなく、これを操る「御者」なのだという覚めた認識を持つべきだという点です。そう考えている限り、今の自分は御者としては未熟かもしれないけれども、まだまだ成長してゆくことができると信じることができます。いたずらに絶望することも少ないでしょう。
名越さんの語りが説得的なのは、これらはそう考えた方が効果がある、という「割り切り」なのだと繰り返し述べているからです。われわれは人生を積み上げで見ることに慣れ切ってしまっているけれども、ゴールから逆算して今なにをすべきなのかという問いからスタートすると、「これまでとんでもない見当違いをしてきたのかもしれない」と気付くことができます。そうすれば、4頭立ての馬車の例えも抵抗なく受け入れられるし、暴れ馬を調教する御者としての振る舞いも変わってくるでしょう。
暴れ馬を御するということは、暴走を食い止めるというネガティヴな側面ばかりではありません。名人の御者ならば4頭立ての馬車を天馬のように操ることができるはずです。
名越さんはそのあたりの消息についても、次のように述べています。
ゴールをどこに見据えるか、頭ではわかっていても、それを拒否する段階があります。そんなところまで願いが叶うわけがないとか、そんなうぬぼれたことできるわけないじゃない、というふうに。
そういうときは、「オリンピックに出るアスリートになった気持ちで、真剣に祈ってみる」と思ってください。今まで祈ったことがない人でも、やろうと思ったらできるだけ最高のレベルになりきった気持ちでやったほうがいいんです。 自分が取り組んでいることや協力していることのゴールから逆算して、今なすべきことを決めていくわけです。どうもそのほうが物事が進みやすいなと納得できてくると「ゴールを想定できる」「逆算の道筋が見える」と、直感的に思える割合が増えてくるのではないでしょうか。
(『心がスーッと晴れ渡る感覚の心理学』角川SSC新書 )
オリンピックのアスリートになった気持ち、というたとえがわれわれのイメージを強く喚起します。
これはゴールを高く保つための心構えだけを強調しているのではありません。オリンピックの代表になって日の丸を背負い、プレッシャーに押し潰されそうな人間の気持ちは、誰にでも痛いほど想像できます。そのようなギリギリの環境に置かれれば、心身のあらゆるリソースを総動員するだろうことも想像できます。そして、そこまでイメージできるのならば、さあ今度はあなたの番だ、と名越さんは背中を押すのです。
名人の御者が馬車を操り、4頭の馬が息を揃えて、今まさに天を駆けようとする瞬間のこころもちではないでしょうか。
もうひとつ、名越さんが強調するのは、より偉大なものに対する「祈り」の大切さです。オリンピックのアスリートは何に対して祈るのだろうと考えてみると、以下の記述も腑に落ちるように理解できます。
例えば、樹齢2000年の屋久杉を見て、みんなが心から感動するというのは、やはりその大きさ、圧倒的な存在感に加えて、2000年という悠久の時間による長さも感じられ、たかだが数十年しか生きていない自分がちっぽけに感じられて、心に迫り来るものがある。わずかな歴史しかない自分の人生が、長い歴史を経て立つ大木の中に入って、溶けていく感覚を知ると、心だけでなく身体までが楽になるのだと思います。(中略)
私たちは普段、世俗の凡夫として生きているわけです。ただ、一度溶けて一体になるような感覚の経験をすると、言わば視点が一気に拡大します。自分の近視眼的な視点が生み出す苦しみや怒りなどを、対象化して捉えることができる大きな幅を持てるようになるはずです。(前掲書より)
つまり、偉大なものに対する祈りの姿勢をとることで、心という暴れ馬と距離をとって、これを御する自分の立場を意識することが、よりスムースにできるようになるのです。
「プラグマティックな考え方」という言い方を名越さんは好んでします。
しかしこの説明の仕方自体が、実はプラグマティックであって、プラグマティズムを抜け出るものだとわたしは思います。4頭立ての馬車の御者である自分をさらに高めて外部においてみる。そうすることによって馬車全体を客観視することができる。
これは仏教思想の「小我」から「大我」になることなのだ、という説明も本書の中に見ることができます。しかし、名越さんはそれをあくまでも本論の脇に据える程度の扱いにとどめています。そういう頭での理解を、精神科医である著者はそもそも求めてはいません。
「心という暴れ馬を操ることのできる御者」というイメージを抱いた瞬間に、「心」の呪縛から放たれるだけではなく、天馬の飛躍が事実上(つまりはプラグマティックに)約束されているのです。