先日開催された秋季茶会で、わが社中は濃茶席を担当しました。
大濠公園の濃茶席でお茶をいただく機会は何度かありましたが、茶室の裏方を見るのは初めてでした、茶室の奥に水屋があり、その奥には三畳ほどの小さな茶室も控えています。水屋の隣は、にじり口のある六畳ほどの茶室で、網代天井や化粧屋根裏など、茶室ならではの意匠が施されているのには、しばらく目を奪われました。
今日のために新たに用意された柄杓や茶筅が、包みを解かれて、真っ白な生地をあらわにすると、こちらの気持ちも新たになるようです。
そうやって茶会の準備をしているうちに、これまで、この茶室で茶会を催した数知れぬ人々の息づかいと、これからまさに客を迎えようとする我々の期待や不安の入り混じった気持ちとが、茶室のなかで響きあっているような感覚にとらわれます。
この茶室のなかでとり行われていることは、茶室ができて以来何十年もの間、ほとんど似たような所作の繰り返しであったはずです。ところが、道具も席中の人たちも、点前のひとつひとつも、すべての取り合わせは偶然であり、一度として同じ取り合わせであったことはありません。亭主と客とのあいだの、そして人と道具とのあいだの交流も、全て新しいものが、この瞬間に生み出されては消えて行きます。
このように偶然の振り幅が制限されていればいるほど、私たちは新しさに対して敏感でいられるように思います。
「新しくある」ということと、スクラップ・アンド・ビルドとを、私たちはあまりにも安易に、同じものとしてきたのではないでしょうか。
茶室には、ひとつひとつの偶然が静かに沈殿して行くように、場の空気に折り畳まれてゆきます。そこでは、偶然の新しさの向こう側に、いつまでも残り続けるものを感じることができるのです。
今年の席では、茶会での点前をはじめて経験する社中二人と、茶会そのものが初めての高校生がいました。その緊張も正客との心の響きあいも、とりわけ新鮮なものだったはずです。そして、それらもこの茶室の古層のうえに降り積もっていき、未来へ開けています。未来へ開けたおおらかさがあるからこそ、いつまでも残り続けるものなのだと思います。