犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

じっとしていること

2020-07-23 11:15:29 | 日記

せっかくの連休にもかかわらず、家で「じっとしている」という人も多いのではないでしょうか。
コロナ禍のもと出歩かないことは、自主規制も含めて「強いられて」の選択であって、もともと「じっとしている」こと自体が否応なく選択せざるを得ないものなのだと思います。しかし「じっとしている」ことは人生の停滞や非生産性としてネガティヴにしか語られないことなのでしょうか。たとえば子育てのために自らのリソースの大半を費やすとき、その時間は本来自己実現のために使うべき貴重な時間の浪費であると、子育てを体験した人は必ずしも感じてはいないと思います。むしろ「自己実現」の呪縛から解き放たれて本当の自由を獲得したという実感を持つのではないでしょうか。子育てが「じっとしている」ことなどと言うと、猛烈な反発を受けそうですが、ここでは「人生をポジティブに開拓し自己実現する」ようなスタンスの対概念として「じっとしている」をとらえて考えています。

数学の独立研究者である森田真生さんが、対談のなかでリチャード・パワーズの『オーバーストーリー』(新潮社)を紹介して、「じっとしている」こと(hold still)について語っています(対談・鼎談未来をつくる言葉『波6月号』新潮社)。『オーバーストーリー』は、南北戦争前に植えられた栗の木の4世代にわたり撮影され続けられた写真を、ひとりの芸術家が相続することから始まる物語です。彼はやがてセコイアの巨木がそびえ立つ大森林にたどり着き、聴覚障害の科学者、父を自死で亡くした女性技術者、撃墜され大木に救われた空軍兵士、動植物好きの心理学者など8組の人物の人生に触れ、巨木の声に召喚されるように行動を起こして行きます。
森田さんはこの小説を原書で読んで “hold still” という言葉が数多く使われているのに気づきました。森田さんは“still“という語について次のように語っています。

本書のなかで、樹木のあり方を象徴しているのがstillという言葉です。stillという言葉にはいくつものニュアンスがこめられていて、第一には「じっとしていること」、「静止していること」、「静かである」こと。 
また、stillには逆接の意味もあります。"I don't know why I'm doing this, but still..."、「何の目的、何の意味があるかわからないけど、それでも」というときのように、「それでも/にもかかわらず」という逆接です。 
さらに、「まだ/いまなお」と、持続、継続を意味することもあります。"He's still speaking."、「あいつまだしゃべってるぞ」と。 
こうした複数のニュアンスを孕んだstillという言葉が、この小説の通奏低音になっている。それは、樹木の在り方そのものでもある。木々は静かにその場でじっとしているようで、それでも、まだなお、と生長を続ける。気付けば樹木は陸上の至るところにまで進出し、あらゆる生命活動を支える大気すら作り出している。

この小説に登場する8組の人物は、病気になったり、事故に遭ったり、重要なアイデアに遭遇したりと、hold still (じっとして)しまう環境に置かれるのですが、その瞬間に「自分ではないものに耳を澄ませはじめる」(森田)のが、重要なポイントです。私たちには、それぞれの生業や社会的役割のなかで、その持ち場における最大の力を発揮すべく努力をしていて、それを自己実現と言ったりもするのでしょうが、そういう歯車が突然止まりただ「じっとしている」しかないような瞬間があります。そのときに自分ではないもの、自分を超えるものと向きあい、調和する、そういう体験をするのだと森田さんは語っています。

森田さんとの対談者 情報学者ドミニク・チェンさんのコメントにもしみじみと考えさせられるものがありました。彼にとっての “hold still” は、娘が誕生し、子育てをしていたときのことであり、そのとき「個としての自分から解放された」ように感じたと語っています。そのプロセスを思い出そうとする過程で、娘に対する「遺言」を書こうと思い立ち、それがやがて展覧会展示作品『Last Words / TypeTrace』に結実したのだそうです。

この作品は、10分以内に誰か一人に向けて遺言を書くというテーマで募集し、展示期間中に2300人以上が書いてくれた遺言をタイプトレースで再現するというものです。この作品についてドミニクさんは次のように語っています。

自分自身がまず娘に書いてみた時、10分は本当に一瞬で、字数にしたら1000字もないくらい。なのに、その10分間は書き手にとてつもない密度をもたらすことがわかりました。この行間から「おのずと出てきてしまうもの」は在る種の「祈り」なのではないか、そう感じました。結局、テキストを寄せていただいた2300人のほとんどに共通するのが、「相手の人に、自分がいなくなった世界でも、幸せな世界を生きてほしい」という祈りでした。そのことがタイプトレースで再生される時間の隙間から感じ取れたんです。

ドミニクさんの語る「個としての自分から解放される」瞬間は、「自分がいなくなった世界」と隣り合わせにいる瞬間です。娘が産まれて「じっとしている」しかない時間から、はじめて立ちのぼってきた、人生に対する新しい向き合い方なのだと思います。


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