お茶の稽古ではひと月に一回「花月」を行います。5人の出席者が札を引いて、その出札によって「亭主」になったり「正客」「次客」になったりと、役割が瞬時に変わります。全員が息を揃えて整然と役割交代をする、稽古ではその流れの美しさを目指すのです。
一年のうち二月だけに設えられる「大炉」では、普段の点前とは左右が逆になりますし、「花月」では亭主と客の関係が、瞬間に逆転することになります。
このように茶道には、もともとある決まりごとや役割分担を、シャッフルしてほどいてみせるような技法を、その中に取り入れています。私にはこれが何を意味しているのかよくわかりませんでしたが、道元禅師の「三心」について、玄侑宗久さんが語っているのを読んで、理解の端緒をつかんだように思いました。
道元禅師は『典座教訓』という書物の中で、修行僧が食事を作る際の心構えとして大切なものを、「喜心、老心、大心」の三心であると説いています。以下、玄侑さんの説明を引用します。
道元禅師は、人は三つの心を持たなければいけないというふうにおっしゃるんです。ひとつめが「喜心」、喜ぶ心。二つめが「老心」、親が子どもを慈悲深く見つめるように見る心。三つめが「大心」、大きな心というのは、おもしろいんですけど、「春声にひかれて春沢に遊ばず、秋色を見るといえども更に秋心なし」という表現があります。昼の、たとえば鳥の鳴き声とかを聞いて心躍る気持ちがあっても、だからといって春の沢まで出ていってはしゃぎ回ったりはしない。秋の景色に寂しさを感じても、心の中まで寂しくなったりはしない。
ある部分では感覚を研ぎ澄ませなきゃいけないけれども、ある部分では非常に気にしなくならなきゃいけないというところがあって、その辺のかねあいなのかなと思いますね。(『中途半端もありがたい』東京書籍 42頁)
喜んで相手のために奉仕する気持ち、相手を気遣って温かく接する思い。これなしでは気持ちもこもった食事を提供することはできません。しかし、これらは諸刃の剣なのかもしれない。相手のことを思って「熱に浮かれたように」人に尽くすことも、われわれにはできてしまうからです。ホスピタリティを心がけながら、奴隷のような仕事をしている人は山のようにいます。
まずは相手を喜ばせること、慈しむことから始めるけれども、決してそこには耽溺しない。喜ばせたい自分、人を慈しむ自分をも、どこかで突き放してみることができなければ、自分も相手も参ってしまう。そういうことをしっかり心に留める智慧を「大心」というのではないか、と理解しました。
一瞬前までの「正客」が出札によって瞬時に「亭主」になり、もてなす側の役回りを引き受ける。いつもの点前の逆勝手で客に接し、もてなす側と客と道具との関係を再構築し直す。茶道のなかに見られる、既成のものをほどいてみせる技法は、「大心」を養う智慧なのではないか、そんなことを考えました。