数日前、NHKで The Life『いまも夢のまま 15年目の笹井宏之』という番組を放送していました。短歌界に鮮烈なデビューを果たし、将来を嘱望されていた歌人が、突然の病に倒れて15年が経ちます。
笹井宏之の歌集『えーえんとくちから』は何度も読みましたが、笹井宏之の映像や語る様子を見るのは初めてでした。自宅の廊下の鴨居に思い切り頭をぶつける様子も映っており、こんなに背の高い青年だったのだと初めて知りました。
身体表現性障害という難病を発症し、寝たきりのままインターネットで短歌を投稿し続けたという情報だけから抱いていた歌人の、勝手なイメージが大きく変わりました。特に不登校児の教育支援をするNPOの活動に、わざわざ有田町から参加するなど、殻に閉じこもる歌人のイメージとはかけ離れた人だったようです。
話は変わりますが、去年のゴールデンウィークに有田の陶器市に家族で出かけたとき、少し足を伸ばして、町外れにある大公孫樹に会いに行きました。子どもたちが小さいころ(それこそ15年ほど前)、家族みんなで息をのむように見上げた大木を、成人した子どもたちともう一度見上げようと思ったのです。
大公孫樹に再会したとき、真っ先に思い浮かんだのが笹井宏之の歌でした。
ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす
(笹井宏之『えーえんとくちから』)
この歌では、詠み手は樹木になっています。樹木は「あなた」に言葉をかける代わりに、身をゆすり実を落として思いを伝えようとします。
「ねむらないただ一本の樹」は「あなた」を一途に思う姿を表していますが、親の子に対する思いとしても違和感はありません。事実、私はそのようにこの歌を読みました。
同じ歌集に続けて登場する歌がこれです。
拾ったら手紙のようで開いたらあなたのようでもう見れません
この手紙は、一首目の樹木が落とした実なのでしょう。こんどは「あなた」が一本の樹になって実を落としており、それを拾ってみると手紙のようで、嬉しくておそろしくて、もう読めないのだと歌人は詠います。だらしない話ですが、子離れできない親の心境を、率直に言い表しているように思います。
人を思うことの切なさを、この二首はストレートに詠っています。まだまだ生きようと思っていたはずの、歌人の切実な気持ちが伝わってきます。
笹井宏之が有田の人だということと、全く無関係にこれらの歌が頭に浮かんだのですが、ひょっとすると「ねむらないただ一本の樹」と詠むとき、歌人はあの有田の大公孫樹を思い描いていたのかもしれないなどと思いました。