炉のお点前は薄茶の席でも、亭主の出入りのたびに襖を開け閉めします。そこが風炉の季節との大きな違いで、茶室がいっそう小宇宙の観を呈するところです。
床の間には「壺中日月長(こちゅうじつげつながし)」の軸がかけてありました。
出典は『後漢書』に収められた「費長房伝」という奇譚です。
汝南の町に壺公と呼ばれる薬売りの老人が住んでいました。壺公は夕暮れ時になると、店を閉め店頭に下げられた小さな壺の中に飛び込んで身を隠してしまいます。ある日、この様子を費長房という役人に見つかってしまい、壺公はしぶしぶ壺の中に彼を連れて行くことになります。
費長房が驚いたことには、壺の中の世界は金殿玉楼がそびえ、広い庭園には珍しい木々が繁りや花々が咲き誇っており、泉水などもいたるところに設けられています。壺公は壺中の国の主人だったのです。費長房は、侍女たちから美酒佳肴のもてなしを受けたり、仙術の指導を受けたりして、文字通り時を忘れるほどに楽しく過ごしたのですが、やがて現実の世界に帰る日になりました。ところが本人は二、三日滞在したばかりと思っていたのに、十数年も時間は経っていたというのです。
「壺中日月長」とは、壺中のような仙境にあっては、俗世間とは違って時間がゆったりと流れるということを指すのですが、これだけでは何を言わんとしているのかわかりません。
浦島太郎の物語にはじまり、世界中には同じような仙境奇譚があふれていて、夢のような世界から現実世界に踏み出すと、時間が一気に流れて歳をとってしまうというオチもそっくりです。
これは、どこかに物語のルーツがあるというのではなく、おそらく「時間」というものに向き合ったときに突き当たる、何か「ほのぼのしたもの」からの離脱の感覚が、これら物語の根源にあるのではないかと思います。
甘美な万能感に浸っていられる幼児期のごく短い時期を過ぎると、昨日の自分と今日の自分との隔たりを感じるようになります。全一ではない自分がいて、それでも「この自分」が昨日も今日も同一なのだとすると、そこには時間が流れているのだ、というふうに「時間」の概念が生まれます。「時間」とは、なつかしい満ち足りた楽園からの離脱と同時に生まれるものなのです。
楽園からの離脱は、空間や時間のモノサシを育てて人を大人にしますが、人は自分を大人にしている約束事から自由でありたいとどこかで思っていて、費長房伝のような話に惹かれるのだと思います。
心理学者であり高名な茶人である岡本浩一さんは、『心理学者の茶道発見』(淡交社)のなかで、茶道の果たしてきた役割の大きなもののひとつとして「他者受容の場」を与えることだと述べています。茶室という狭い空間のなかで、客をもてなそうとする亭主と、亭主の無事を祈るように見つめる正客との、主客を超えたおだやかな心持ちが、他者受容の場をつくりあげるのです。
それは時間や空間が生まれる以前に、わたしたちを取り巻いていた、なつかしい、ほのぼのとした空間に似ているように思います。
「壺中」にあって時間を忘れるようだ、という掛軸の言葉も、そうやって身を預けてごらんなさいという呼びかけに聞こえます。