心理学者であり高名な茶人でもある岡本浩一さんは、近著『心理学者の茶道発見』(淡交社)で、茶道の「他者受容」について述べており、色々と考えさせられました。
精神の健康な人は、おだやかな楽観に満ち、他者受容が高いのに対し、他者のささいな瑕疵に心が煩わされるときは、心が疲労しているのだ、と岡本さんは述べます。岡本さんの指摘で重要なのは「他者受容」が「自己受容」を前提としているという点です。
たとえば一緒にいるときには楽しいのに、別れたあとにひどく疲れの残る人がいます。その人は言葉や様子に表さなくとも、こちらの瑕疵に敏感に心が反応して、にこやかな応対と矛盾するネガティブなサインを発していることが多いのです。「自己受容」に問題を抱えているために、会う人ごとに自分と比較してしまう、それがネガティブなサインとなって表に出て、よけいに「他者受容」を難しくしてしまうのだといいます。
自らをおおらかに受け容れながら、他者の瑕疵をもそのままに受け容れる。我を忘れて心を遊ばせるとき、まさにそのような心持ちではないでしょうか。
河合隼雄さんは「我を忘れる」ということについて、次のように述べています。
「我を忘れる」ことは、しかし、怖いことだ。これができるためには、自分を投げ出しても「大丈夫」と抱きとめてもらう経験を持っていないと駄目である。死と再生の繰り返しが人間を成長させるという考えから言うと、このような身の投げ出しと受けとめによって、人間は強くなってゆき、「我を忘れる」体験を自分のものにすることができるのだ。
ところで、最近の子どもたちは、このような身の投げ出しと受けとめの経験が少なすぎるのではなかろうか。このような受けとめは、簡単に言ってしまうと「まるごと好き」と誰かに言ってもらうことだ。(『しあわせ眼鏡』海鳴社)
そうは言っても成人した人間が、他者による「まるごとの肯定」によって自己受容を取り戻すことは至難の技です。岡本さんは「他者受容」と、それによってゆたかに紡ぎ出される「自己受容」の再生の場を、茶の湯に見出します。
茶の湯が古来果たして来た役割のひとつが、他者受容の場を提供することだったのではないだろうか。その鍵は、他者受容が言葉や論理よりむしろ態度に宿るという認識にある。茶室は、亭主と客、そして正客と相客が、態度と態度でコミュニケーションする場を提供することにより、他者受容の空間となったのである。(中略)
そのクライマックスが濃茶点前である。もてなしにふさわしいおいしいお茶を練ろうという亭主の気持ちと、亭主の点前の無事を祈って息をつめるようにして見守っている客の気持ちが、主客の境を越える。相互の他者受容がおだやかな自己受容を生む瞬間である。(岡本 前掲書 101頁)
そう言えば、こんなことがありました。
先日のお茶のお稽古のときのことです。翌日が大雪になるというニュースで持ちきりだったにもかかわらず、茶杓の銘を「春風」と付けてしまいました。深い考えもないことです。ところが正客は、それこそ春風のような笑顔でもって「そのような心持ちこそが春を呼ぶのですね」と応えて下さいました。
そのとき、ほんとうに温かな風が吹いたように感じたものです。