色鮮やかな着物に袴姿の女性たちが街を歩いていました。チマチョゴリを着た女性もその笑顔のなかにいて、ほんのりと温かな気持ちにさせられます。
大学四年間の最後の年を、仲間たちと心ゆくまで語らうこともできず、本来あるべき発表の機会も持てなかったであろう若者たちの門出に、幸あれと思います。
ところで、わたし自身の卒業式の記憶はほとんどありません。
大学院に進むことが決まっていて、就職してゆく友人たちに取り残されたような気持ちから、ひとりで過ごしていたような気がします。学食のなかにお気に入りの場所があり、窓の外に影絵のように現れる学生たちの姿を眺めていると、心が落ち着くのでした。その椅子に座ってぼんやりと外を眺めて、卒業式の長い一日を過ごしたようにも思います。
大学の池に棲みふる真鯉ひとつしづけきを見て我が卒業す
(高野公彦『水木』)
永田和宏さんが『人生の節目で読んでほしい短歌』(NHK出版新書)のなかで解説していますが、卒業というと、なにか特別の記念すべきものを目に焼き付けようとするところ、この歌はなんでもない景色に焦点を当てることで、かえって印象に残るものになりました。
以下、永田さんの解説を引用します。
いつも見ていた鯉であったに違いない。何年も見続けてきた鯉を、今日も昨日も同じように見て、そして卒業するというのです。それも色鮮やかな緋鯉ではなく、くすんだ色の真鯉。ひっそりと大学の池に「棲みふる」一匹だけの鯉。作者は、その目立たない、ひっそりとした生に、己の生を重ねていたのかもしれません。誰にも注目されることなくひっそりと棲息しているこの鯉のように、自分はこの大学で四年間を過ごし、そして誰にも知られることなくここを出ていくのだという、そんな静かな覚悟のようなものが感じられます。(前掲書 62頁)
当の永田さんは、自身の卒業式のことを次のように詠っています。
うっかりで済ませるものにはあらざれど卒業式は忘れて過ぎき
学園紛争の真っ只中、多くの大学で卒業式は行われず、ようやく二年ぶりに自身の卒業式が開催されたのに気が付かなかったというのです。卒業式などというものをバカにしていた当時の風潮もあったのでしょう。テレビで卒業式があったことを知った父親から「今日は卒業式だったんだな」と言われて、卒業式が終わっていたことに気が付いたのだそうです。
色鮮やかな風景には、必ず単色の風景が隣り合わせに息づいています。華やか見える景色の個々の顔にも、暗い表情が潜んでいるのかもしれません。